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或る女(36) (1/4)

 底のない悒鬱ゆううつがともするとはげしく葉子を襲うようになった。われのない激怒がつまらないことにもふと頭をもたげて、葉子はそれを押し鎮めることが出来なくなった。春が来て、木の芽から畳の床に至るまですべてのものがふくらんで来た。愛子も貞世も見違えるように美しくなった。その肉体は細胞の一つ一つまで素早く春をぎつけ、吸収し、飽満するように見えた。愛子はその圧迫に堪えないで春の来たのを恨むようなけだるさと淋しさとを見せた。貞世は生命そのものだった。秋から冬にかけてにょきにょきと延び上がった細々した体には、春の精のような豊麗な脂肪がしめやかに沁みわたって行くのがに見えた。葉子だけは春が来ても痩せた。来るにつけて痩せた。ゴムまりの弧線のような肩は骨ばった輪廓りんかくを、薄着になった着物の下からのぞかせて、潤沢な髪の毛の重みに堪えないように頸筋くびすじも細々となった。痩せて悒鬱になったことから生じた別種の美――そう思って葉子が便りにしていた美もそれはだんだんえ増さって行く種類の美ではないことを気づかねばならなくなった。その美はその行くてには夏がなかった。寒い冬のみが待ち構えていた。

 歓楽ももう歓楽自身の歓楽は持たなくなった。歓楽の後には必ず病理的な苦痛が伴うようになった。ある時にはそれを思うことすらが失望だった。それでも葉子はすべての不自然な方法によって、今は振り返って見る過去にばかり眺められる歓楽の絶頂を幻影としてでも現在に描こうとした。そして倉地を自分の力の支配の下につなごうとした。健康が衰えて行けば行くほどこの焦燥のために葉子の心は休まなかった。全盛期を過ぎた伎芸ぎげいの女にのみ見られるような、傷ましく廃頽たいはいした、腐菌の燐光りんこうを思わせる凄惨な蠱惑力こわくりょくをわずかな力として葉子はどこまでも倉地をとりこにしようとあせりにあせった。

 しかしそれは葉子の傷ましい自覚だった。美と健康とのすべてを備えていた葉子には今の自分がそう自覚されたのだけれども、はじめて葉子を見る第三者は、物凄ものすごいほど冴えきって見える女盛りの葉子の惑力に、日本には見られないようなコケットの典型を見いだしたろう。おまけに葉子は肉体の不足を極端に人目をく衣服で補うようになっていた。その当時は日露の関係も日米の関係も嵐の前のような暗い徴候を現し出して、国人全体は一種の圧迫を感じ出していた。臥薪嘗胆がしんしょうたんというような合い言葉がしきりと言論界には説かれていた。しかしそれと同時に日清戦争を相当に遠い過去として眺め得るまでに、その戦役の重い負担から気のゆるんだ人々は、ようやく調整され始めた経済状態の下で、生活の美装ということに傾いていた。自然主義は思想生活の根柢こんていとなり、当時病天才の名をほしいままにした高山樗牛たかやまちょぎゅうらの一団はニイチェの思想を標榜ひょうぼうして「美的生活」とか「清盛論」というような大胆奔放な言説をもって思想の維新を叫んでいた。風俗問題とか女子の服装問題とかいう議論が守旧派の人々の間にはかまびすしく持ち出されている間に、その反対の傾向は、殻を破った芥子けしの種のように四方八方に飛び散った。こうして何か今までの日本にはなかったようなものの出現を待ち設け見守っていた若い人々の眼には、葉子の姿は一つの天啓のように映ったに違いない。女優らしい女優を持たず、カフェーらしいカフェーを持たない当時の路上に葉子の姿はまぶしいものの一つだ。葉子を見た人は男女を問わず目をそばだてた。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。