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或る女(35) (1/6)

 葉子と倉地とは竹柴館以来たびたび家を明けて小さな恋の冒険を楽しみ合うようになった。そういう時に倉地の家に出入りする外国人や正井などが同伴することもあった。外国人は主に米国の人だったが、葉子は倉地がそういう人たちを同座させる意味を知って、その滑らかな英語と、誰でも――ことに顔や手の表情に本能的な興味を持つ外国人を――蠱惑こわくしないではおかない華やかな応接ぶりとで、彼らをとりこにすることに成功した。それは倉地の仕事を少なからず助けたに違いなかった。倉地の金まわりはますます潤沢になって行くらしかった。葉子一家は倉地と木村とから貢がれる金で中流階級にはあり得ないほど余裕のある生活が出来たのみならず、葉子は十分の仕送りを定子にして、なお余る金を女らしく毎月銀行に預け入れるまでになった。

 しかしそれとともに倉地はますますすさんで行った。の光にさえもとのように大海にのみ見る寛闊かんかつな無頓着なそして恐ろしく力強い表情はなくなって、いらいらとあてもなく燃えさかる石炭の火のような熱と不安とが見られるようになった。ややともすると倉地は突然わけもないことにきびしく腹を立てた。正井などは木葉微塵こっぱみじんに叱り飛ばされたりした。そういう時の倉地は嵐のような狂暴な威力を示した。

 葉子も自分の健康がだんだん悪い方に向いて行くのを意識しないではいられなくなった。倉地の心が荒めば荒むほど葉子に対して要求するものは燃えただれる情熱の肉体だったが、葉子もまた知らずらず自分をそれに適応させ、かつは自分が倉地から同様な狂暴な愛撫を受けたい欲念から、先のことも後のことも考えずに、現在の可能のすべてを尽くして倉地の要求に応じて行った。脳も心臓も振りまわして、ゆすぶって、たたきつけて、一気に猛火であぶり立てるような激情、魂ばかりになったような、肉ばかりになったような極端な神経の混乱、そしてその後に続く死滅と同然の倦怠けんたい疲労。人間が有する生命力をどん底からめし試みるそういう虐待が日に二度も三度も繰り返された。そうしてその後では倉地の心はきっと野獣のようにさらに荒んでいた。葉子は不快極まる病理的の憂鬱に襲われた。静かに鈍く生命を脅かす腰部の痛み、二匹の小魔が肉と骨との間にはいり込んで、肉を肩にあてて骨を踏んばって、うんと力任せに反り上がるかと思われるほどの肩の凝り、だんだん鼓動を低めて行って、呼吸を苦しくして、今働きを止めるかと危ぶむと、一時に耳にまで音が聞こえるくらい激しく動き出す不規則な心臓の動作、もやもやと火の霧で包まれたり、透明な氷の水で満たされるような頭脳の狂い、......こういう現象は日一日と生命に対する、そして人生に対する葉子の猜疑さいぎを激しくした。

 有頂天の溺楽できらくの後に襲って来るさびしいとも、悲しいとも、はかないとも形容の出来ないその空虚さは何よりも葉子につらかった。たといその場で命を絶ってもその空虚さは永遠に葉子を襲うもののようにも思われた。ただこれからのがれるただ一つの道は捨て鉢になって、一時的のものだとは知り抜きながら、そしてその後にはさらに苦しい空虚さが待ち伏せしているとは覚悟しながら、次の溺楽をうほかはなかった。気分の荒んだ倉地も同じ葉子と同じ心で同じことを求めていた。こうして二人は底止するところのないいずこかへ手をつないで迷い込んで行った。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。