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或る女(34) (1/6)

 ともかくも一家の主となり、妹たちを呼び迎えて、その教育に興味と責任とを持ち始めた葉子は、自然自然に妻らしくまた母らしい本能に立ち帰って、倉地に対する情念にもどこか肉から精神に移ろうとする傾きが出来て来るのを感じた。それは楽しい無事とも考えれば考えられぬことはなかった。しかし葉子は明らかに倉地の心がそういう状態の下には少しずつこわばって行き冷えて行くのを感ぜずにはいられなかった。それが葉子には何よりも不満だった。倉地を選んだ葉子であって見れば、日がつに従って葉子にも倉地が感じ始めたと同様な物足らなさが感ぜられて行った。落ち着くのか冷えるのか、とにかく倉地の感情が白熱して働かないのを見せつけられる瞬間は深いさびしみを誘い起こした。こんなことで自分の全我を投げ入れた恋の花を散ってしまわせてなるものか。自分の恋には絶頂があってはならない。自分にはまだどんな難路でも舞い狂いながら登って行く熱と力とがある。その熱と力とが続く限り、ぼんやり腰を据えて周囲の平凡な景色などを眺めて満足してはいられない。自分の眼には絶巓ぜってんのない絶巓ばかりが見えていたい。そうした衝動は小休みなく葉子の胸にわだかまっていた。絵島丸の船室で倉地が見せてくれたような、何もかも無視した、神のように狂暴な熱心――それを繰り返して行きたかった。

 竹柴館の一夜はまさしくそれだった。その夜葉子は、次の朝になって自分が死んで見いだされようとも満足だと思った。しかし次の朝生きたままでを開くと、その場で死ぬ心持ちにはもうなれなかった。もっとこうじた歓楽を追い試みょうという欲念、そしてそれが出来そうな期待が葉子を未練にした。それからというもの葉子は忘我渾沌ぼうがこんとんの歓喜に浸るためには、すべてを犠牲としても惜しまない心になっていた。そして倉地と葉子とは互い互いを楽しませそしてき寄せるためにあらん限りの手段を試みた。葉子は自分の不可犯性(女が男に対して持つ一番強大な蠱惑物こわくぶつ)のすべてまで惜しみなく投げ出して、自分を倉地の眼に娼婦以下のものに見せるとも悔いようとはしなくなった。二人は、傍眼わきめには酸鼻だとさえ思わせるような肉欲の腐敗の末遠く、互いに淫楽の実を互い互いから奪い合いながらずるずるとくずれこんで行くのだった。

 しかし倉地は知らず、葉子にとってはこの忌まわしい腐敗の中にも一縷いちるの期待が潜んでいた。一度ぎゅっつかみ得たらもう動かないある物がその中に横たわっているに違いない、そういう期待を心の隅から拭い去ることが出来なかったのだった。それは倉地が葉子の蠱惑に全く迷わされてしまって再び自分を恢復かいふくし得ない時期があるだろうというそれだった。恋をしかけたもののひけめとして葉子は今まで、自分が倉地を愛するほど倉地が自分を愛してはいないとばかり思った。それがいつでも葉子の心を不安にし、自分というものの居据わりどころまでぐらつかせた。どうかして倉地を痴呆ちほうのようにしてしまいたい。葉子はそれがためにはある限りの手段を取って悔いなかったのだ。妻子を離縁させても、社会的に死なしてしまっても、まだまだ物足らなかった。竹柴館の夜に葉子は倉地を極印付きの兇状きょうじょう持ちにまでしたことを知った。外界から切り離されるだけそれだけ倉地が自分の手に落ちるように思っていた葉子はそれを知って有頂天にななった。そして倉地が忍ばねばならぬ屈辱を埋め合わせるために葉子は倉地が欲すると思わしい激しい情欲を提供しようとしたのだ。そしてそうすることによって、葉子自身が結局自己を銷尽しょうじんして倉地の興味から離れつつあることには気づかなかったのだ。

 とにもかくにも二人の関係は竹柴館の一夜から面目を改めた。葉子は再び妻から情熱の若々しい情人になって見えた。そういう心の変化が葉子の肉体に及ぼす変化は驚くばかりだった。葉子は急に三つも四つも若やいだ。二十六の春を迎えた葉子はそのころの女としてはそろそろ老いの徴候をも見せるはずなのに、葉子は一つだけ年を若く取ったようだった。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。