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或る女(33) (1/6)

 岡に住所を知らせてから、すぐそれが古藤に通じたと見えて、二月にはいってからの木村の消息は、倉地の手を経ずに直接葉子にあてて古藤から廻送されるようになった。古藤はしかし頑固にもその中に一言も自分の消息を封じ込んでよこすようなことはしなかった。古藤を近づかせることは一面木村と葉子との関係を断絶さす機会を早める恐れがないでもなかったが、あの古藤の単純な心をうまく操りさえすれば、古藤を自分の方になずけてしまい、従って木村に不安を起こさせない方便になると思った。葉子は例のいたずら心から古藤を手なずける興味をそそられないでもなかった。しかしそれを実行に移すまでにその興味はこうじては来なかったのでそのままにしておいた。

 木村の仕事は思いのほか都合よく運んで行くらしかった。「日本における未来のピーボデー」という標題に木村の肖像まで入れて、ハミルトン氏配下の敏腕家の一人として、また品性の高潔な公共心の厚い好箇の青年実業家として、やがては日本において、米国におけるピーボデーと同様の名声を勝ち得べき約束にあるものと賞讃したシカゴ・トリビューンの「青年実業家評判記」の切り抜きなどを封入して来た。思いのほか巨額の為替をちょいちょい送ってよこして、倉地氏に支払うべき金額の全体を知らせてくれたら、どう工面しても必ず送付するから、一日も早く倉地氏の保護から独立して世評の誤謬を実行的に訂正し、併せて自分に対する葉子の真情を証明してほしいなどと言ってよこした。葉子は――倉地に溺れきっている葉子は鼻の先でせせら笑った。

 それに反して倉地の仕事の方はいつまでも目鼻がつかないらしかった。倉地の言うところによれば日本だけの水先案内業者の組合と言っても、東洋の諸港や西部米国の沿岸にあるそれらの組合とも交渉をつけて連絡を取る必要があるのに、日本の移民問題が米国の西部諸州でやかましくなり、排日熱が過度に煽動せんどうされ出したので、何事も米国人との交渉は思うように行かずにその点で行きなやんでいるとのことだった。そう言えば米国人らしい外国人がしばしば倉地の下宿に出入りするのを葉子は気がついていた。ある時はそれが公使館の館員ででもあるかと思うような、礼装をして見事な馬車に乗った紳士であることもあり、ある時はズボンの折り目もつけないほどだらしのない風をした人相のよくない男でもあった。

 とにかく二月にはいってから倉地の様子が少しずつすさんで来たらしいのが目立つようになった。酒の量もいちじるしく増して来た。正井がみつくように怒鳴られていることもあった。しかし葉子に対しては倉地は前にも勝って溺愛の度を加え、あらゆる愛情の証拠をつかむまでは執拗しつように葉子を虐げるようになった。葉子はもくらむ火酒をあおりつけるようにその虐げを喜んで迎えた。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。