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或る女(32) (1/1)

 それは二月初旬のある日の昼ごろだった。からっと晴れた朝の天気に引きかえて、朝日がしばらく東向きの窓にす間もなく、空は薄曇りに曇って西風がゴウゴウと杉森にあたって物凄ものすごい音を立て始めた。どこにか春をほのめかすような日が来たりした後なので、ことさら世の中が暗澹あんたんと見えた。雪でもまくしかけて来そうに底冷えがするので、葉子は茶の間に置炬燵おきごたつを持ち出して、倉地の着代えをそれにかけたりした。土曜だから妹たちは早退はやびけだと知りつつも倉地は物臭さそうに外出の仕度にかからないで、どてらを引っかけたまま火鉢のそばにうずくまっていた。葉子は食器を台所の方に運びながら、来たり行ったりするついでに倉地と物を言った。台所に行った葉子に茶の間から大きな声で倉地が言いかけた。

「おいお葉(倉地はいつの間にか葉子をこう呼ぶようになっていた)俺は今日は二人に対面して、これから勝手に出はいりの出来るようにするぞ」

 葉子は布巾を持って台所の方からいそいそと茶の間に帰って来た。

「何だってまた今日......」

 そう言ってつき膝をしながらちゃぶ台を拭った。

「いつまでもこうしているが気づまりでしょうないからよ」

「そうねえ」

 葉子はそのままそこにすわり込んで布巾をちゃぶ台にあてがったまま考えた。本当はこれはとうに葉子の方から言い出すべきことだったのだ。妹たちのいない隙か、寝てからの暇をうかがって、倉地と会うのは、始めのうちこそあいびきのような興味を起こさせないでもないと思ったのと、葉子は自分の通って来たような道はどうしても妹たちには通らせたくないところから、自分の裏面を窺わせまいという心持ちとで、今までついずるずるに妹たちを倉地に近づかせないでおいたのだったが、倉地の言葉を聞いて見ると、そうしておくのが少し延び過ぎたと気がついた。また新しい局面を二人の間に開いて行くにもこれは悪いことではない。葉子は決心した。

「じゃ今日にしましょう。......それにしても着物だけは着代えていて下さいましな」

「よし来た」

 と倉地はにこにこしながらすぐ立ち上がった。葉子は倉地の後ろから着物を羽織っておいて羽がいに抱きながら、今さらに倉地の頑丈な雄々しい体格を自分の胸に感じつつ、

「それは二人ともいい子よ。可愛かわいがってやって下さいましよ。......けれどもね、木村とのあのことだけはまだ内証よ。いい折を見つけて、私から上手に言って聞かせるまでは知らんふりをしてね......よくって......あなたはうっかりするとあけすけに物を言ったりなさるから......今度だけは用心して頂戴」

「馬鹿だな、どうせ知れることを」

「でもそれはいけません......ぜひ」

 葉子は後ろから背延びをしてそっと倉地の後ろくびを吸った。そして二人は顔を見合わせて微笑ほほえみかわした。

 その瞬間に勢いよく玄関の格子戸ががらっと開いて「おお寒い」と言う貞世の声が疳高かんだかく聞こえた。時間でもないので葉子は思わずぎょっとして倉地から飛び離れた。次いで玄関口の障子が開いた。貞世は茶の間に駆け込んで来るらしかった。

「お姉様雪が降って来てよ」

 そう言っていきなり茶の間のふすまを開けたのは貞世だった。

「おやそう......寒かったでしょう」

 とでも言って迎えてくれる姉を期待していたらしい貞世は、置炬燵にはいって胡坐あぐらをかいている途方もなく大きな男を姉のほかに見つけたので、驚いたように大きなを見張ったが、そのまますぐに玄関に取って返した。

「愛姉さんお客様よ」

 と声をつぶすように言うのが聞こえた。倉地と葉子とは顔を見合わしてまた微笑みかわした。

「ここにお下駄があるじゃありませんか」

 そう落ち着いていう愛子の声が聞こえて、やがて二人は静かにはいって来た。そして愛子はしとやかに貞世はぺちゃんと坐って、声をそろえて「ただいま」と言いながら辞儀をした。愛子の年ごろの時、厳格な宗教学校で無理強いに男の子のような無趣味な服装をさせられた、それに復讐ふくしゅうするような気で葉子の装わした愛子の身なりはすぐ人の眼をいた。お下げをやめさせて、束髪にさせたうなじたぼのところには、そのころ米国での流行そのままに、蝶結びの大きな黒いリボンがとめられていた。古代紫の紬地つむぎじの着物に、カシミヤのはかま裾短すそみじかにはいて、その袴は以前葉子が発明した例の尾錠どめになっていた。貞世の髪はまた思いきって短くおかっぱに切りつめて、横の方に深紅のリボンが結んであった。それがこの才はじけた童女を、膝までくらいな、わざと短く仕立てた袴とともに可憐かれんにもいたずらいたずらしく見せた。二人は寒さのために頬を真紅まっかにして、眼を少し涙ぐましていた。それがことさら二人に別々な可憐な趣を添えていた。

 葉子は少し改まって二人を火鉢の座から見やりながら、

「お帰りなさい。今日はいつもより早かったのね。......お部屋に行ってお包みをおいて袴を取っていらっしゃい、その上でゆっくりお話しすることがあるから......」

 二人の部屋からは貞世がひとりではしゃいでいる声がしばらくしていたが、やがて愛子は広い帯を普段着と着かえた上にしめて、貞世は袴をぬいだだけで帰って来た。

「さあここにいらっしゃい。(そう言って葉子は妹たちを自分の身近に坐らせた)このお方がいつか双鶴館でおうわさした倉地さんなのよ。今までも時々いらしったんだけれどもついにお目にかかる折がなかったわね。これが愛子、これが貞世です」

 そう言いながら葉子は倉地の方を向くともうくすぐったいような顔つきをせずにはいられなかった。倉地は渋い笑いを笑いながら案外真面目に、

「お初に(と言ってちょっと頭を下げた)二人とも美しいねえ」

 そう言って貞世の顔をちょっと見てからじっと眼を愛子にさだめた。愛子は格別恥じる様子もなくその柔和な多恨な眼を大きく見開いてまんじりと倉地を見やっていた。それは男女の区別を知らぬ無邪気な眼とも見えた。先天的に男というものを知りぬいてその心を試みようとする淫婦の眼とも見られないことはなかった。それほどその眼は奇怪な無表情の表情を持っていた。

「はじめてお目にかかるが、愛子さんおいくつ」

 倉地はなお愛子を見やりながらこう尋ねた。

「私はじめてではございません。......いつぞやお目にかかりました」

 愛子は静かに眼を伏せてはっきりと無表情な声でこう言った。愛子があの年ごろで男の前にはっきりああ受け答えが出来るのは葉子にも意外だった。葉子は思わず愛子を見た。

「はて、どこでね」

 倉地もいぶかしげにこう問い返した。愛子は下を向いたまま口をつぐんでしまった。そこにはかすかながら憎悪の影がひらめいて過ぎたようだった。葉子はそれを見逃がさなかった。

「寝顔を見せた時にやはり彼女あれは眼をさましていたのだな。それを言うのか知らん」

 とも思った。倉地の顔にも思いかけずちょっとどぎまぎしたらしい表情が浮かんだのを葉子は見た。「なあに......」激しく葉子は自分で自分を打ち消した。

 貞世は無邪気にも、この熊のような大きな男が親しみやすい遊び相手と見て取ったらしい。貞世がその日学校で見聞きして来たことなどを例の通り残らず姉に報告しようと、何でも構わず、何でも隠さず、言ってのけるのに倉地が興に入って合槌あいづちを打つので、ここに移って来てから客の味を全く忘れていた貞世はうれしがって倉地を相手にしようとした。倉地はさんざん貞世とたわむれて、昼近く立って行った。

 葉子は朝食がおそかったからと言って、妹たちだけが昼食の膳についた。

「倉地さんは今、ある会社をお立てになるのでいろいろ御相談事があるのだけれども、下宿では周りがやかましくって困るとおっしゃるから、これからいつでもここで御用をなさるように言ったから、きっとこれからもちょくちょくいらっしゃるだろうが、貞ちゃん、今日のように遊びのお相手にばかりしていては駄目よ。その代わり英語なんぞで分からないことがあったら何でもお聞きするといい、姉さんよりいろいろのことをよく知っていらっしゃるから......それから愛さんは、これから倉地さんのお客様も見えるだろうから、そんな時には一々姉さんの指図を待たないではきはきお世話をして上げるのよ」

 と葉子はあらかじめ二人に釘をさした。

 妹たちが食事を終わって二人で後始末をしているとまた玄関の格子が静かに開く音がした。

 貞世は葉子のところに飛んで来た。

「お姉様またお客様よ。今日は随分たくさんいらっしゃるわね。誰でしょう」

 と物珍しそうに玄関の方に注意の耳をそばだてた。葉子も誰だろうといぶかった。ややしばらくして静かに案内を求める男の声がした。それを聞くと貞世は姉から離れて駆け出して行った。愛子がたすきを外しながら台所から出て来た時分には、貞世はもう一枚の名刺を持って葉子のところに取って返していた。金縁のついた高価らしい名刺の表には岡一おかはじめと記してあった。

「まあ珍しい」

 葉子は思わず声を立てて貞世とともに玄関に走り出た。そこには処女のように美しく小柄な岡が雪のかかった傘をつぼめて、外套がいとうの滴りを紅をさしたように赤らんだ指の先ではじきながら、女のようにはにかんで立っていた。

「いいところでしょう。おいでには少しお寒かったかも知れないけれども、今日はほんとにいい折柄でしたわ。隣に見えるのが有名な苔香園たいこうえん、あすこの森の中が紅葉館、この杉の森が私大好きですの。今日は雪が積もってなおさら綺麗ですわ」

 葉子は岡を二階に案内して、そこの硝子ガラス戸越しにあちこちの雪景色を誇りがに指呼して見せた。岡は言葉少なながら、ちかちかとまぶしい印象を眼に残して、降り下り降りあおる雪の向こうに隠見する山内の木立ちの姿を嘆賞した。

「それにしてもどうしてあなたはここを......倉地から手紙でも行きましたか」

 岡は神秘的に微笑ほほえんで葉子を顧みながら「いいえ」と言った。

「そりゃおかしいこと......それではどうして」

 縁側から座敷へ戻りながらおもむろに、

「お知らせがないもので上がってはきっといけないとは思いましたけれども、こんな雪の日ならお客もなかろうからひょっとかすると会って下さるかとも思って......」

 そういう言い出しで岡が語るところによれば、岡の従妹いとこに当たる人が幽蘭女学校に通学していて、正月の学期から早月さつきという姉妹の美しい生徒が来て、それは芝山内の裏坂に美人屋敷と言って界隈で有名な家の三人姉妹の中の二人であるということや、一番の姉に当たる人が「報正新報」で噂を立てられた優れた美貌の持ち主だということやが、早くも口さがない生徒間の評判になっているのを何かの折に話したのですぐ思い当たったけれども、一日一日と訪問を躊躇ちゅうちょしていたのだとのことだった。葉子は今さらに世間の案外に狭いのを思った。愛子と言わず貞世の上にも、自分の行跡がどんな影響を与えるかも考えずにはいられなかった。そこに貞世が、愛子が調えた茶器をあぶなっかしい手つきで、眼八分に持って来た。貞世はこの日さびしい家の内に幾人も客を迎える物珍しさに有頂天になっていたようだった。満面に偽りのない愛嬌あいきょうを見せながら、丁寧にぺっちゃんとお辞儀をした。そして顔にたれかかる黒髪を振り仰いで頭を振って後ろにさばきながら、岡を無邪気に見やって、姉の方に寄り添うと大きな声で「どなた」と聞いた。

「一緒にお引き合わせしますからね、愛さんにもおいでなさいと言っていらっしゃい」

 二人だけが座に落ち着くと岡は涙ぐましいような顔をしてじっと手あぶりの中を見込んでいた。葉子の思いなしかその顔にも少しやつれが見えるようだった。普通の男ならば多分さほどにも思わないに違いない家の中のいさくさなどに繊細過ぎる神経をなやまして、それにつけても葉子の慰撫いぶをことさらにあこがれていたらしい様子は、そんなことについては一言も言わないが、岡の顔にははっきりと描かれているようだった。

「そんなにせいたっていやよ貞ちゃんは。せっかちな人ねえ」

 そう穏やかにたしなめるらしい愛子の声が階下でした。

「でもそんなにおしゃれしなくったっていいわ。お姉様が早くっておっしゃってよ」

 無遠慮にこう言う貞世の声もはっきり聞こえた。葉子はほほえみながら岡を暖かく見やった。岡もさすがに笑いを宿した顔を上げたが、葉子と見交わすと急に頬をぽっと赤くして眼を障子の方にらしてしまった。手あぶりの縁に置かれた手の先がかすかに震うのを葉子は見のがさなかった。

 やがて妹たち二人が葉子の後ろに現れた。葉子は坐ったまま手を後ろにまわして、

「そんな人のお尻のところに坐って、もっとこっちにおいでなさいな。......これが妹たちですの。どうかお友達にして下さいまし。お船で御一緒だった岡一様。......愛さんあなたお知り申していないの......あの失礼ですが何とおっしゃいますの、お従妹御いとこごさんのお名前は」

 と岡に尋ねた。岡は言葉通りに神経を転倒させていた。それはこの青年を非常に醜くかつ美しくして見せた。急いで坐り直した居住まいをすぐ意味もなく崩して、それをまた非常に後悔したらしい顔つきを見せたりした。

「は?」

「あの私どもの噂をなさったそのお嬢様のお名前は」

「あのやはり岡と言います」

「岡さんならお顔は存じ上げておりますわ。一つ上の級にいらっしゃいます」

 愛子は少しも騒がずに、倉地に対した時と同じ調子でじっと岡を見やりながら即座にこう答えた。その眼は相変わらず淫蕩いんとうと見えるほど極端に純潔だった。純潔と見えるほど極端に淫蕩だった。岡はじながらもその眼から自分の眼を外らすことが出来ないようにまともに愛子を見て見る見る耳たぶまでを真っ赤にしていた。葉子はそれを気取ると愛子に対して一段の憎しみを感ぜずにはいられなかった。

「倉地さんは......」

 岡は一路の逃げ路をようやく求め出したように葉子に眼を転じた。

「倉地さん? たった今お帰りになったばかり惜しいことをしましてねえ。でもあなたこれからはちょくちょくいらしって下さいますわね。倉地さんもすぐお近所にお住まいですからいつか御一緒に御飯でもいただきましょう。私日本に帰ってからこの家にお客様をお上げするのは今日がはじめてですのよ。ねえ貞ちゃん。......本当によく来て下さいましたこと。私とおから来ていただきたくってしょうがなかったんですけれども、倉地さんから何とか言って上げて下さるだろうと、そればかりを待っていたのですよ。私からお手紙を上げるのはいけませんもの(そこで葉子はわかって下さるでしょうと言うような優しい眼つきを強い表情を添えて岡に送った)。木村からの手紙であなたのことはくわしく伺っていましたわ。いろいろお苦しいことがおありになるんですってね」

 岡はそのころになってようやく自分を恢復かいふくしたようだった。しどろもどろになった考えや言葉もやや整って見えた。愛子は一度しげしげと岡を見てしまってからは、決して二度とはその方を向かずに、眼を畳の上に伏せてじっと千里も離れたことでも考えている様子だった。

「私の意気地のないのが何よりもいけないんです。親類の者たちは何と言っても私を実業の方面に入れて父の事業をがせようとするんです。それは多分本当にいいことなんでしょう。けれども私にはどうしてもそういうことがわからないから困ります。少しでもわかれば、どうせこんなに病身で何も出来ませんから、母はじめんなの言うことを聴きたいんですけれども......私は時々乞食こじきにでもなってしまいたいような気がします。皆んなの主人思いな眼で見つめられていると、私は皆んなに済まなくなって、なぜ自分みたいなくずな人間を惜しんでいてくれるのだろうとよくそう思います......こんなこと今まで誰にも言いはしませんけれども。突然日本に帰って来たりなぞしてから私は内々監視までされるようになりました。......私のような家に生まれると友達というものは一人も出来ませんし、皆んなとは表面だけで物を言っていなければならないんですから...心が淋しくって仕方がありません」

 そう言って岡はすがるように葉子を見やった。岡が少し震えを帯びた、汚れっ気のちりほどもない声の調子を落としてしんみりと物を言う様子にはおのずからな気高い淋しみがあった。戸障子をきしませながら雪を吹きまく戸外の荒々しい自然の姿に比べてはことさらそれが目立った。葉子には岡のような消極的な心持ちは少しも分からなかった。しかしあれでいて、米国くんだりから乗って行った船で帰って来るところなぞには、粘り強い意力が潜んでいるようにも思えた。平凡な青年なら出来ても出来なくとも周囲のものにおだてあげられれば疑いもせずに父の遺業を嗣ぐ真似をして喜んでいるだろう。それがどうしても出来ないというところにもどこか違ったところがあるのではないか。葉子はそう思うと何の理解もなくこの青年を取りいてただわいわい騒ぎ立てている人たちが馬鹿馬鹿しくも見えた。それにしてもなぜもっとはきはきとそんなくだらない障碍しょうがいくらい打ち破ってしまわないのだろう。自分ならその財産を使ってから、「こうすればいいのかい」とでも言って、まわりで世話を焼いた人間たちを胸のすききるまで思い存分笑ってやるのに。そう思うと岡の煮えきらないような態度が歯がゆくもあった。しかし何といっても抱きしめたいほど可憐なのは岡の繊美な淋しそうな姿だった。岡は上手に入れられた甘露をすすり終わった茶碗ちゃわんを手の先に据えて綿密にその作りを賞翫しょうがんしていた。

「お覚えになるようなものじゃございませんことよ」

 岡は悪いことでもしていたように顔を赤くしてそれを下においた。彼はいい加減な世辞は言えないらしかった。

 岡ははじめて来た家に長居するのは失礼だと来た時から思っていて、機会あるごとに座を立とうとするらしかったが、葉子はそういう岡の遠慮に感づけば感づくほど巧みにもすべての機会を岡に与えなかった。

「もう少しお待ちになると雪が小降りになりますわ。今、こないだ印度インドから来た紅茶を入れて見ますから召し上がって見て頂戴。普段いいものを召し上がりつけていらっしゃるんだから、鑑定をしていただきますわ。ちょっと、......ほんのちょっと待っていらしって頂戴よ」

 そういう風にいって岡を引き止めた。始めの間こそ倉地に対してのようにはなつかなかった貞世もだんだんと岡と口をきくようになって、しまいには岡の穏やかな問いに対して思いのままを可愛らしく語って聞かせたり、話題に窮して岡が黙ってしまうと貞世の方から無邪気なことを聞きただして、岡をほほえましたりした。何と言っても岡は美しい三人の姉妹が(そのうち愛子だけは他の二人とは全く違った態度で)心を籠めて親しんで来るその好意には敵しかねて見えた。盛んに火を起こした暖かい部屋の中の空気にこもる若い女たちの髪からとも、懐からとも、はだからとも知れぬ柔軟な香りだけでも去りがたい思いをさせたに違いなかった。いつの間にか岡はすっかり腰を落ち着けて、言いようなく快く胸の中のわだかまりを一掃したように見えた。

 それからというもの、岡は美人屋敷と噂される葉子の隠れ家に折々出入りするようになった。倉地とも顔を合わせて、互いに快く船の中での思い出し話などをした。岡の眼の上には葉子の眼が義眼いれめされていた。葉子のよしと見るものは岡もよしと見た。葉子の憎むものは岡も無条件で憎んだ。ただ一つその例外となっているのは愛子というものらしかった。もちろん葉子とて性格的にはどうしても愛子とれ合わなかったが、骨肉の情としてやはり互いに言いようのない執着を感じあっていた。しかし岡は愛子に対しては心からの愛着を持ち出すようになっていることが知れた。

 とにかく岡の加わったことが美人屋敷の彩りを多様にした。三人の姉妹は時折り倉地、岡に伴われて苔香園の表門の方から三田の通りなどに散歩に出た。人々はそのきらびやかな群れに物好きな眼をかがやかした。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。