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或る女(30) (1/4)

「僕が毎日――毎日とは言わず毎時間あなたに筆を執らないのは執りたくないから執らないのではありません。僕は一日あなたに書き続けていてもなお飽き足らないのです。それは今の僕の境界では許されないことです。僕は朝から晩まで機械のごとく働かねばなりませんから。

 あなたが米国を離れてからこの手紙は多分七回目の手紙としてあなたに受け取られると思います。しかし僕の手紙はいつまでも暇をぬすんで少しずつ書いているのですから、僕から言うと日に二度も三度もあなたにあてて書いてるわけになるのです。しかしあなたはあの後一回の音信も恵んでは下さらない。

 僕は繰り返し繰り返し言います。たといあなたにどんな過失どんな誤謬ごびゅうがあろうとも、それを耐え忍び、それを許すことにおいては主基督キリスト以上の忍耐力を持っているのを僕はみずから信じています。誤解しては困ります。僕がいかなる人に対してもかかる力を持っているというのではないのです。ただあなたに対してです。あなたはいつでも僕の品性を尊く導いてくれます。僕はあなたによって人がどれほど愛し得るかを学びました。あなたによって世間で言う堕落とか罪悪とかいうものがどれほどまで寛容の余裕があるかを学びました。そうしてその寛容によって、寛容する人自身がどれほど品性を陶冶されるかを学びました。僕はまた自分の愛を成就するためにはどれほどの勇者になり得るかを学びました。これほどまでに僕を神のに高めて下さったあなたが、僕から万一にも失われるというのは想像が出来ません。神がそんな試練を人の子に下される残虐はなさらないのを僕は信じています。そんな試練に堪えるのは人力以上ですから。今の僕からあなたが奪われるというのは神が奪われるのと同じことです。あなたは神だとは言いますまい。しかしあなたを通してのみ僕は神を拝むことが出来るのです。

 時々僕は自分で自分をあわれんでしまうことがあります。自分自身だけの力と信仰とですべてのものを見ることが出来たらどれほど幸福で自由だろうと考えると、あなたを煩わさなければ一歩を踏み出す力をも感じ得ない自分の束縛を呪いたくもなります。同時にそれほど慕わしい束縛は他にないことを知るのです。束縛のないところに自由はないといった意味であなたの束縛は僕の自由です。

 あなたは――一旦僕に手を与えて下さると約束なさったあなたは、ついに僕を見捨てようとしておられるのですか。どうして一回の音信も恵んでは下さらないのです。しかし僕は信じて疑いません。世にもし真理があるならば、そして真理が最後の勝利者ならばあなたは必ず僕にかえって下さるに違いないと。なぜなれば、僕は誓います。――主よこのしもべを見守り給え――僕はあなたを愛して以来断じて他の異性に心を動かさなかったことを。この誠意があなたによって認められないわけはないと思います。

 あなたは従来暗いいくつかの過去を持っています。それが知らず知らずあなたの向上心を躊躇ちゅうちょさせ、あなたをやや絶望的にしているのではないのですか。もしそうならあなたは全然誤謬に陥っていると思います。すべての救いは思いきってその中から飛び出すほかにはないのでしょう。そこに停滞しているのはそれだけあなたの暗い過去を暗くするばかりです。あなたは僕に信頼を置いて下さることは出来ないのでしょうか。人類の中に少くも一人、あなたのすべての罪を喜んで忘れようと両手をひろげて待ち設けているもののあるのを信じて下さることは出来ないでしょうか。

 こんなくだらない理窟はもうやめましょう。

 昨夜書いた手紙に続けて書きます。今朝ハミルトン氏のところから至急に来いという電話がかかりました。シカゴの冬は予期以上に寒いのです。仙台どころの比ではありません。雪は少しもないけれども、イリー湖を多湖地方から渡って来る風は身を切るようでした。僕は外套がいとうの上にまた大外套を重ね着していながら、風に向いた皮膚にみ透る風の寒さを感じました。ハミルトン氏の用というのは来年セントルイスに開催される大規模な博覧会の協議のため急にそこに赴くようになったから同行しろというのでした。僕は旅行の用意は何らしていなかったが、ここにアメリカニズムがあるのだと思ってそのまま同行することにしました。自分の部屋の戸に鍵もかけずに飛び出したのですからバビコック博士の奥さんは驚いているでしょう。しかしさすがに米国です。着のみ着のままでここまで来ても何一つ不自由を感じません。鎌倉あたりまで行くのにも膝かけから旅カバンまで用意しなければならないのですから、日本の文明はまだなかなかのものです。僕たちはこの地に着くと、停車場内の化粧室でひげり、靴を磨かせ、夜会に出ても恥ずかしくない仕度が出来てしまいました。そしてすぐ協議会に出席しました。あなたも知っておらるる通り独逸ドイツ人のあの辺における勢力は偉いものです。博覧会が開けたら、我々は米国に対してよりもむしろこれらの独逸人に対して緊褌きんこん一番する必要があります。ランチの時僕はハミルトン氏に例の日本に買い占めてあるキモノその他の話をもう一度しました。博覧会を前に控えているのでハミルトン氏も今度は乗り気になってくれまして、高島屋と連絡をつけておくためにとにかく品物を取り寄せて自分の店でさばかして見ようと言ってくれました。これで僕の財政は非常に余裕が出来るわけです。今まで店がなかったばかりに、取り寄せても荷厄介だったものですが、ハミルトン氏の店で取り扱ってくれれば相当に売れるのは分かっています。そうなったら今までと違ってあなたの方にも足りないながら仕送りをして上げることが出来ましょう。さっそく電報を打って一番早い船便で取り寄せることにしましたから不日着荷することと思っています。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。