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或る女(29) (1/6)

 このことがあってからまたしばらくの間、倉地は葉子とただ二人の孤独に没頭する興味を新しくしたように見えた。そして葉子が家の中をいやが上にも整頓して、倉地のために住み心地のいい巣を造る間に、倉地は天気さえよければ庭に出て、葉子の逍遥しょうようを楽しませるために精魂を尽くした。いつ苔香園たいこうえんとの話をつけたものか、庭の隅に小さな木戸を作って、その花園の母屋からずっと離れた小逕こみちに通い得る仕掛けをしたりした。二人は時々その木戸をぬけて目立たないように、広々とした苔香園の庭の中をさまよった。店の人たちは二人の心を察するように、なるべく二人から遠ざかるように勉めてくれた。十二月の薔薇ばらの花園はさびしい廃園の姿を目の前にひろげていた。可憐な花を開いて可憐な匂いを放つ癖にこの灌木かんぼくはどこか強い執着を持つ植木だった。寒さにも霜にもめげず、その枝の先にはまだ裏咲きの小さな花を咲かせようともがいているらしかった。種々な色のつぼみが大方葉の散り尽くしたこずえにまで残っていた。しかしその花弁は存分に霜に虐げられて、黄色に変色して互いに膠着こうちゃくして、恵み深い日の目にっても開きようがなくなっていた。そんな間を二人は静かな豊かな心でさまよった。風のない夕暮れなどには苔香園の表門を抜けて、紅葉館前のだらだら坂を東照宮の方まで散歩するようなこともあった。冬の夕方のこととて人通りはれで二人がさまよう道としてはこの上もなかった。葉子はたまたま行き遇う女の人たちの衣裳を物珍しく眺めやった。それがどんなに粗末な不格好な、いでたちであろうとも、女は自分以外の女の服装を眺めなければ満足出来ないものだと葉子は思いながらそれを倉地に言って見たりした。つやの髪から衣服までを毎日のように変えて装わしていた自分の心持ちにも葉子は新しい発見をしたように思った。本当は二人だけの孤独に苦しみ始めたのは倉地だけではなかったのか。ある時にはその淋しい坂道の上下から、立派な馬車や抱え車が続々坂の中段を目ざして集まるのに遇うことがあった。坂の中段から紅葉館の下に当たる辺に導かれた広い道の奥からは、能楽のはやしの音が床しげに漏れて来た。二人は能楽堂での能の催しが終わりに近づいているのを知った。同時にそんなことを見たのでその日が日曜日であることにも気がついたくらい二人の生活は世間からかけ離れていた。

 こうした楽しい孤独もしかしながら永遠には続き得ないことを、続かしていてはならないことを鋭い葉子の神経はざとくさとって行った。ある日倉地が例のように庭に出て土いじりに精を出している間に、葉子は悪事でも働くような心持ちで、つやに言いつけて反古紙ほごがみを集めた箱を自分の部屋に持って来さして、いつか読みもしないで破ってしまった木村からの手紙をり出そうとする自分を見いだしていた。いろいろな形に寸断された厚い西洋紙の断片が木村の書いた文句の断片をいくつもいくつも葉子の眼にさらし出した。しばらくの間葉子は引きつけられるようにそういう紙片を手当たり次第に手に取り上げて読みふけった。半成のが美しいように断簡には言い知れぬ情緒が見いだされた。その中に正しく織り込まれた葉子の過去が多少の力を集めて葉子にせまって来るようにさえ思え出した。葉子は我れにもなくその思い出に浸って行った。しかしそれは長い時が過ぎる前に壊れてしまった。葉子はすぐ現実に取って返していた。そしてすべての過去に嘔気はきけのような不快を感じて箱ごと台所に持って行くとつやに命じて裏庭でその全部を焼き捨てさせてしまった。

 しかしこの時も葉子は自分の心で倉地の心を思いやった。そしてそれがどうしてもいい徴候でないことを知った。そればかりではない。二人はかすみって生きる仙人のようにしては生きていられないのだ。職業を失った倉地には、口にこそ出さないが、この問題は遠からず大きな問題として胸に忍ばせてあるのに違いない。事務長ぐらいの給料で余財が出来ているとは考えられない。まして倉地のように身分不相応な金遣いをしていた男にはなおのことだ。その点だけから見てもこの孤独は破られなければならぬ。そしてそれは結局二人のためにいいことであるに相違ない。葉子はそう思った。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。