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或る女(28) (1/4)

 こんな夢のような楽しさが他愛もなく一週間ほどは何の故障もき起こさずに続いた。歓楽に耽溺たんできしやすい、従っていつでも現在を一番楽しく過ごすのを生まれながら本能としている葉子は、こんな有頂天な境界から一歩でも踏み出すことを極端に憎んだ。葉子が帰ってから一度しか会うことの出来ない妹たちが、休日にかけてしきりに遊びに来たいと訴え来るのを、病気だとか、家の中が片づかないとか、口実を設けて拒んでしまった。木村からも古藤のところか五十川女史のところかに宛てて便りが来ているには相違ないと思ったけれども、五十川女史はもとより古藤のところにさえ住所が知らしてないので、それを回送してよこすことも出来ないのを葉子は知っていた。定子――この名は時々葉子の心を未練がましくさせないではなかった。しかし葉子はいつでも思い捨てるようにその名を心の中から振り落とそうと努めた。倉地の妻のことは何かの拍子につけて心を打った。この瞬間だけは葉子の胸は呼吸も出来ないくらい引き締められた。それでも葉子は現在目前の歓楽をそんな心痛で破らせまいとした。そしてそのためには倉地にあらん限りのびと親切とをささげて、倉地から同じ程度の愛撫あいぶを貪ろうとした。そうすることが自然にこの難題に解決をつける導火線みちびにもなると思った。

 倉地も葉子に譲らないほどの執着をもって葉子が捧げる杯から歓楽を飲み飽きようとするらしかった。不休の活動を命としているような倉地ではあったけれども、この家に移って来てから、家を明けるようなことは一度もなかった。それは倉地自身が告白するように破天荒なことだったらしい。二人は、初めて恋を知った少年少女が世間も義理も忘れ果てて、生命さえ忘れ果てて肉体を破ってまでも魂を一つに溶かしたいとあせる、それと同じ熱情を捧げ合って互い互いを楽しんだ。楽しんだというよりも苦しんだ。その苦しみを楽しんだ。倉地はこの家に移って以来新聞も配達させなかった。郵便だけは移転通知をしておいたので倉地の手もとに届いたけれども、倉地はその表書きさえを通そうとはしなかった。毎日の郵便はつやの手によって束にされて、葉子が自分の部屋に定めた玄関側の六畳の違い棚にむなしく積み重ねられた。葉子の手もとには妹たちからのほかには一枚の葉書さえ来なかった。それほど世間から自分たちを切り放しているのを二人とも苦痛とは思わなかった。苦痛どころではない、それが幸いであり誇りであった。門には「木村」とだけ書いた小さい門札が出してあった。木村という平凡な姓は二人の楽しい巣を世間にあばくようなことはないと倉地が言い出したのだった。

 しかしこんな生活を倉地に永い間要求するのは無理だということを葉子はついに感づかねばならなかった。ある夕食の後倉地は二階の一間で葉子を力強く膝の上に抱き取って、甘い私語ささやきを取り交わしていた時、葉子が情に激して倉地に与えた熱い接吻せっぷんの後にすぐ、倉地が思わず出た欠伸あくびじっみ殺しだのを逸早いちはやく見て取ると、葉子はこの種の歓楽がすでに峠を越したことを知った。その夜は葉子には不幸な一夜だった。かろうじて築き上げた永遠の城塞が、はかなくも瞬時の蜃気楼しんきろうのように見る見る崩れて行くのを感じて、倉地の胸に抱かれながらほとんど一夜を眠らずに通してしまった。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。