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或る女(27) (1/4)

「何を私は考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんなことはついぞないことだのに」

 葉子はその夜倉地と部屋を別にして床に就いた。倉地は階上に、葉子は階下に。絵島丸以来二人が離れて寝たのはその夜がはじめてだった。倉地が真心をこめた様子でかれこれ言うのを、葉子はすげなく跳ねつけて、せっかくとってあった二階の寝床を、女中に下に運ばしてしまった。横になりはしたがいつまでも寝つかれないで二時近くまで言葉通りに輾転反側てんてんはんそくしつつ、繰り返し繰り返し倉地の夫婦関係を種々に妄想したり、自分にまくしかかって来る将来の運命をひたすらに黒く塗って見たりしていた。それでも果ては頭も体も疲れ果てて夢ばかりな眠りに陥ってしまった。

 うつらうつらとした眠りから、突然例えようのないさびしさにひしひしと襲われて、――それはその時見た夢がそんな暗示になったのか、それとも感覚的な不満がを覚ましたのか分からなかった――葉子は暗闇の中に眼を開いた。嵐のために電線に故障が出来たと見えて、眠る時にはけ放しにしておいた灯がどこもここも消えているらしかった。嵐はしかしいつの間にかぎてしまって、嵐の後の晩秋の夜はことさら静かだった。山内さんない一面の杉森からは深山のような鬼気がしんしんと吐き出されるように思えた。蟋蟀こおろぎが隣の部屋の隅でかすれがすれに声を立てていた。わずかなしかも浅い睡眠には過ぎなかったけれども葉子の頭は暁前の冷えを感じてえと澄んでいた。葉子はまず自分がたった一人で寝ていたことを思った。倉地と関係がなかったころはいつでも一人で寝ていたのだが、よくもそんなことが永年にわたって出来たものだったと自分ながら不思議に思われるくらい、それは今の葉子を物足らなく心淋しくさせていた。こうして静かな心になって考えると倉地の葉子に対する愛情が誠実であるのを疑うべき余地はさらになかった。日本に帰ってから幾日にもならないけれども、今まではとにかく倉地の熱意に少しも変わりが起こったところは見えなかった。いかに恋に眼がふさがっても、葉子はそれを見極めるくらいの冷静な眼力がんりきは持っていた。そんなことは十分に知り抜いている癖に、おぞましくも昨夜のような馬鹿な真似をしてしまった自分が自分ながら不思議なくらいだった。どんなに情に激した時でも大抵は自分を見失うようなことはしないで通して来た葉子にはそれがひどく恥ずかしかった。船の中にいる時にヒステリーになったのではないかと疑ったことが二、三度ある――それが本当だったのではないかしらんとも思われた。そして夜着にかけた洗いたてのキャリコの裏の冷え冷えするのをふくよかな順に感じながら心の中で独語ひとりごちた。

「何を私は考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんなことはついぞないことだのに」

 そう言いながら葉子は肩だけ起き直って、枕頭まくらもとの水を手さぐりでしたたか飲みほした。氷のように冷えきった水が喉もとを静かに流れ下って胃のひろがるまではっきりと感じられた。酒も飲まないのだけれども、酔後の水と同様に、胃の腑に味覚が出来て舌の知らない味を味わい得たと思うほど快く感じた。それほど胸の中は熱を持っていたに違いない。けれども脚の方は反対に恐ろしく冷えを感じた。少しその位置を動かすと白さをそのままな寒い感じがシーツからせまって来るのだった。葉子はまたきびしく倉地の胸を思った。それは寒さと愛着とから葉子を追い立てて二階に走らせようとするほどだった。しかし葉子はすでにそれをじっと耐えるだけの冷静さを恢復かいふくしていた。倉地の妻に対する処置は昨夜のようであっては手際よくは成し遂げられぬ。もっと冷めたい知恵に力を借りなければならぬ――こう思い定めながら暁の白むのを知らずにまた眠りに誘われて行った。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。