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或る女(26) (1/6)

「水戸とかでお座敷に出ていた人だそうですが、倉地さんに落籍ひかされてからもう七、八年にもなりましょうか、それは穏当ないい奥さんで、とても商売をしていた人のようではありません。もっとも水戸の士族のお娘御むすめごで出るが早いか倉地さんのところにいらっしゃるようになったんだそうですからそのはずでもありますが、ちっともれていらっしゃらないでいて、気もおつきにはなるし、しとやかでもあり、......」

 ある晩双鶴館の女将おかみが話に来て四方山よもやまうわさのついでに倉地の妻の様子を語ったその言葉は、はっきりと葉子の心に焼きついていた。葉子はそれが優れた人であると聞かされれば聞かされるほど妬ましさを増すのだった。自分のの前には大きな障碍物しょうがいぶつが真っ暗に立ちふさがっているのを感じた。嫌悪の情にかきむしられて前後のことも考えずに別れてしまったのではあったけれども、仮にも恋らしいものを感じた木部に対して葉子が抱く不思議な情緒、――普段は何事もなかったように忘れ果ててはいるものの、思いも寄らないきっかけにふと胸を引き締めてき起こって来る不思議な情緒、――一種の絶望的なノスタルジア――それを葉子は倉地にも倉地の妻にも寄せて考えて見ることの出来る不幸を持っていた。また自分の生んだ子供に対する執着。それを男も女も同じ程度にきびしく感ずるものかどうかは知らない。しかしながら葉子自身の実感から言うと、何と言っても例えようもなくその愛着は深かった。葉子は定子を見ると知らぬ間に木部に対して恋に等しいような強い感情を動かしているのに気がつくことがしばしばだった。木部との愛着の結果定子が生まれるようになったのではなく、定子というものがこの世に生まれ出るために、木部と葉子とは愛着のきずなつながれたのだとさえ考えられもした。葉子はまた自分の父がどれほど葉子を溺愛できあいしてくれたかをも思って見た。葉子の経験から言うと、両親ともいなくなってしまった今、慕わしさなつかしさをよけい感じさせるものは、格別これと言って情愛のしるしを見せはしなかったが、始終やわらかい眼色で自分たちを見守ってくれていた父の方だった。それから思うと男というものも自分の生ませた子供に対しては女に譲らぬ執着を持ち得るものに相違ない。こんな過去の甘い回想までが今は葉子の心をむちうしもととなった。しかも倉地の妻と子とはこの東京にちゃんと住んでいる。倉地は毎日のようにその人たちにっているのに相違ないのだ。

 思う男をどこからどこまで自分のものにして、自分のものにしたという証拠を握るまでは、心が責めて責めて責めぬかれるような恋愛の残虐な力に葉子は昼となく夜となく打ちのめされた。船の中での何事も打ち任せきったような心やすい気分は他人事ひとごとのように、遠い昔のことのように悲しく思いやられるばかりだった。どうしてこれほどまでに自分というものの落ちつき所を見失ってしまったのだろう。そう思う下から、こうしては一刻もいられない。早く早くすることだけをしてしまわなければ、取り返しがつかなくなる。どこからどう手をつければいいのだ。敵をたおさなければ、敵は自分を斃すのだ。何の躊躇ちゅうちょ。何の思案。倉地が去った人たちに未練を残すようならば自分の恋は石や瓦と同様だ。自分の心で何もかも過去は一切焼き尽くして見せる。木部もない、定子もない。まして木村もない。んな捨てる、皆んな忘れる。その代わり倉地にも過去という過去をすっかり忘れさせずにおくものか。それほどの蠱惑こわくの力と情熱の炎とが自分にあるかないか見ているがいい。そうした一図の熱意が身をこがすように燃え立った。葉子は新聞記者の来襲を恐れて宿にとじ籠もったまま、火鉢の前にすわって、倉地の不在の時はこんな妄想に身も心もかきむしられていた。だんだん募って来るような腰の痛み、肩の凝り。そんなものさえ葉子の心をますます焦立いらだたせた。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。