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或る女(25) (1/5)

 それから一日おいて次の日に古藤から九時ごろに来るがいいかと電話がかかって来た。葉子は十時過ぎにしてくれと返事をさせた。古藤に会うには倉地が横浜に行った後がいいと思ったからだ。

 東京に帰ってから叔母と五十川女史のところへは帰ったことだけを知らせてはおいたが、どっちからも訪問はもとよりのこと一言半句いちごんはんくの挨拶もなかった。責めて来るなり慰めて来るなり、何とかしそうなものだ。あまりと言えば人を踏みつけにした仕業だとは思ったけれども、葉子としては結句それが面倒がなくっていいとも思った。そんな人たちに会っていさくさ口をきくよりも、古藤と話しさえすればその口裏から東京の人たちの心持ちも大体はわかる。積極的な自分の態度はその上で決めても遅くはないと思案した。

 双鶴館そうかくかん女将おかみは本当にから鼻に抜けるように落ち度なく、葉子の影身になって葉子のために尽くしてくれた。その後ろには倉地がいて、あのいかにも疎大らしく見えながら、人の気もつかないような綿密なところにまで気を配って、采配を振っているのはわかっていた。新聞記者などがどこをどうして探り出したか、始めのうちは押し強く葉子に面会を求めて来たのを、女将が手際よく追い払ったので、近づきこそはしなかったが遠巻きにして葉子の挙動に注意していることなどを、女将は眉をひそめながら話して聞かせたりした。木部の恋人であったということがひどく記者たちの興味をいたように見えた。葉子は新聞記者と聞くと、震え上がるほどいやな感じを受けた。小さい時分に女記者になろうなどと人にも口外した覚えがある癖に、探訪などに来る人たちのことを考えると一番いやしい種類の人間のように思わないではいられなかった。仙台で、新聞社の社長と親佐おやさと葉子との間に起こったこととして不倫な捏造ねつぞう記事(葉子はその記事のうち、母に関してはどの辺までが捏造であるか知らなかった。少なくとも葉子に関しては捏造だった)が掲載されたばかりでなく、母のいわゆる冤罪えんざいは堂々と新聞紙上ですすがれたが、自分のはとうとうそのままになってしまった、あの苦い経験などがますます葉子の考えをかたくなにした。葉子が「報正新報」の記事を見た時も、それほど田川夫人が自分を迫害しようとするなら、こちらもどこかの新聞を手に入れて田川夫人に致命傷を与えてやろうかと言う(道徳を米の飯と同様に見て生きているような田川夫人に、その点に傷を与えて顔出しが出来ないようにするのは容易なことだと葉子は思った)たくらみを自分ひとりで考えた時でも、あの記者というものを手なずけるまでに自分を堕落させたくないばかりにその目論見もくろみを思いとどまったほどだった。

 その朝も倉地と葉子とは女将を話し相手に朝飯を食いながら新聞に出たあの奇怪な記事の話をして、葉子が遠にそれをちゃんと知っていたことなどをかたり合いながら笑ったりした。

「忙しいにかまけて、あれはあのままにしておったが......一つはあまり短兵急にこっちから出しゃばると足もとを見やがるで、......あれは何とかせんと面倒だて」

 と倉地はがらっはしを膳に捨てながら、葉子から女将に眼をやった。

「そうですともさ。くだらない、あなた、あれであなたの御職掌にでもけちがついたら本当に馬鹿馬鹿しゅうござんすわ。報正新報社になら私御懇意の方も二人や三人はいらっしゃるから、何なら私からそれとなくお話して見てもようございますわ。私はまたお二人とも今まであんまり平気でいらっしゃるんで、もう何とかお話がついたのだとばかり思ってましたの」

 と女将はさかしそうな眼に真味な色を見せてこう言った。倉地は無頓着に「そうさな」と言ったきりだったが、葉子は二人の意見がほぼ一致したらしいのを見ると、いくら女将が巧みに立ちまわってもそれをみ消すことは出来ないと言い出した。なぜと言えばそれは田川夫人が何か葉子を深く意趣に思ってさせたことで、「報正新報」にそれが現れたわけは、その新聞が田川博士の機関新聞だからだと説明した。倉地は田川と新聞との関係をはじめて知ったらしい様子で意外な顔つきをした。

「俺はまた興録のやつ......あいつはべらべらした奴で、右左のはっきりしない油断のならぬ男だから、あいつの仕事かとも思って見たが、なるほどそれにしては記事の出かたが少し早過ぎるて」

 そう言ってやおら立ち上がりながら次の間に着かえに行った。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。