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或る女(24) (1/6)

 その次の朝女将おかみと話をしたり、呉服屋を呼んだりしたので、日がかなり高くなるまで宿にいた葉子は、いやいやながら例のけばけばしい綿入れを着て、羽織だけは女将が借りてくれた、妹分という人の鳥羽黒うばぐろ縮緬ちりめんの紋付きにして旅館を出た。倉地は昨夜の夜更よふかしにもかかわらずその朝早く横浜の方に出かけた後だった。今日も空は菊日和とでもいう美しい晴れ方をしていた。

 葉子はわざと宿で車を頼んでもらわずに、煉瓦れんが通りに出てから綺麗きれいそうなつじ待ちをやとってそれに乗った。そして池の端の方に車を急がせた。定子を眼の前に置いて、その小さな手をでたり、絹糸のような髪の毛をもてあそぶことを思うと葉子の胸は我れにもなくただわくわくとせき込んで来た。眼鏡橋を渡ってから突き当たりの大時計は見えながらなかなかそこまで車が行かないのをもどかしく思った。膝の上に乗せた土産の玩具おもちゃや小さな帽子などをやきもきしながらひねりまわしたり、膝掛けの厚い地をぎゅっと握り締めたりして、はやる心を押し鎮めようとして見るけれどもそれをどうすることも出来なかった。車がようやく池の端に出ると葉子は右、左、と細い道筋の角々かどかど指図さしずした。そして岩崎の屋敷裏にあたる小さな横町の曲がり角で車を乗り捨てた。

 一ヵ月の間来ないだけなのだけれども、葉子にはそれが一年にも二年にも思われたので、その界隈かいわいが少しも変化しないで元の通りなのがかえって不思議なようだった。じめじめした小溝に沿うて根際の腐れた黒板塀の立ってる小さな寺の境内を突っきって裏に廻ると、寺の貸し地面にぽっつり立った一戸建ての小家が乳母の住むところだ。没義道もぎどうに頭を切り取られた高野槙こうやまきが二本もとの姿で台所前に立っている、その二本に干竿ほしざおを渡して小さな襦袢じゅばんや、丸洗いにした胴着が暖かい日の光を受けてぶら下がっているのを見ると葉子はもうたまらなくなった。涙がぽろぽろと他愛もなく流れ落ちた。家の中では定子の声がしなかった。葉子は気を落ち着けるために案内を求めずに入り口に立ったまま、そっと垣根から庭をのぞいて見ると、日あたりのいい縁側に定子がたった一人、葉子にはしごき帯を長く結んだ後ろ姿を見せて、一心不乱にせっせと少しばかりの壊れ玩具をいじくり廻していた。何事にまれ真剣な様子を見せつけられると、――傍目わきめもふらず畑を耕す農夫、踏み切りに立って子を背負ったまま旗をかざす女房、汗をしとどに垂らしながら坂道に荷車を押す共稼ぎの夫婦――わけもなく涙につまされる葉子は、定子のそうした姿を一眼ひとめ見たばかりで、人間力ではどうすることも出来ない悲しい出来事にでも出遇であったように、しみじみとさびしい心持ちになってしまった。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。