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或る女(23) (1/5)

 その夕方倉地がほこりにまぶれ汗にまびれて紅葉坂をすたすたと登って帰って来るまでも葉子は旅館のしきいをまたがずに桜の並木の下などを徘徊はいかいして待っていた。さすがに十一月となると夕暮れを催した空は見る見る薄寒くなって風さえ吹き出している。一日の行楽に遊び疲れたらしい人の群れに交じって不機嫌そうに顔をしかめた倉地は真っ向に坂の頂上を見つめながら近づいて来た。それを見やると葉子は一時に力を回復したようになって、すぐおどり出して来る悪戯いたずら心のままに、一本の桜の木をたてに倉地をやり過ごしておいて、後ろから静かに近づいて手と手とが触れ合わんばかりに押し並んだ。倉地はさすがに不意をってまじまじと寒さのために少し涙ぐんで見える大きな涼しい葉子のを見やりながら、「どこから湧いて出たんだ」と言わんばかりの顔つきをした。一つ船の中に朝となく夜となく一緒になって寝起きしていたものを、今日はじめて半日の余も顔を見合わさずに過ごして来たのが思った以上に物淋ものさびしく、同時にこんなところで思いもかけず出遇であったが予想のほかに満足であったらしい倉地の顔つきを見て取ると、葉子は何もかも忘れてただうれしかった。その真っ黒に汚れた手をいきなり引っつかんで熱い唇でみしめていたわってやりたいほどだった。しかし思いのままに寄り添うことすら出来ない大道であるのをどうしよう。葉子はその切ない心をねて見せるよりほかなかった。

「私もうあの宿屋には泊まりませんわ。人を馬鹿にしているんですもの。あなたお帰りになるなら勝手にひとりでいらっしゃい」

「どうして......」

 と言いながら倉地は当惑したように往来に立ち止まってしげしげと葉子を見なおすようにした。

「これじゃ(と言って埃にまみれた両手をひろげ襟首を抜き出すように延ばして見せて渋い顔をしながら)どこにも行けやせんわな」

「だからあなたはお帰りなさいましと言ってるじゃありませんか」

 そう冒頭まえおきをして葉子は倉地と押し並んでそろそろ歩きながら、女将おかみの仕打ちから、女中のふしだらまで尾鰭おひれをつけて讒訴いいつけて、早く双鶴館そうかくかんに移って行きたいとせがみにせがんだ。倉地は何か思案するらしくそっぽを見い見い耳を傾けていたが、やがて旅館に近くなったころもう一度立ち止まって、

「今日双鶴館あそこから電話で部屋の都合を知らしてよこすことになっていたがお前聞いたか......(葉子はそういいつけられながら今まですっかり忘れていたのを思い出して、少しくてれたように首を振った)......ええわ、じゃ電報を打ってから先に行くがいい。わしは荷物をして今夜後から行くで」

 そう言われて見ると葉子はまた一人だけ先に行くのがいやでもあった。といって荷物の始末には二人のうちどちらか一人居残らねばならない。

「どうせ二人一緒に汽車に乗るわけにも行くまい」

 倉地がこう言い足した時葉子は危うく、では今日の「報正新報」を見たかと言おうとするところだったが、はっと思い返して喉のところで抑えてしまった。

「何だ」

 倉地は見かけの割りに恐ろしいほど敏捷びんしょうに働く心で、顔にも現さない葉子の躊躇ちゅうちょを見て取ったらしくこうなじるように尋ねたが、葉子が何でもないと応えると、少しも拘泥せずに、それ以上問い詰めようとはしなかった。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。