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或る女(22) (1/7)

 どこかから菊の香がかすかに通って来たように思って葉子は快い眠りから眼を覚ました。自分のそばには、倉地が頭からすっぽりと布団をかぶって、いびきも立てずに熟睡していた。料理屋を兼ねた旅館のに似合わしい派手な縮緬ちりめんの夜具の上にはもう大分高くなったらしい秋の日の光が障子越しにしていた。葉子は往復一ヵ月の余りを船に乗り続けていたので、船脚の揺らめきの名残が残っていて、体がふらりふらりと揺れるような感じを失ってはいなかったが、広い畳の間に大きな軟かい夜具をのべて、五体を思うまま延ばして、一晩ゆっくりと眠り通したその心地よさは格別だった。仰向あおむけになって、寒からぬ程度に暖まった空気の中に両手を二の腕までむき出しにして、軟かい髪の毛に快い触覚を感じながら、何を思うともなく天井の木目を見やっているのも、珍しいことのように快かった。

 やや小半時もそうしたままでいると、帳場でぼんぼん時計が九時を打った。三階にいるのだけれどもその音はほがらかに乾いた空気を伝って葉子の部屋まで響いて来た。と、倉地がいきなり夜具をはねけて床の上に上体を立ててをこすった。

「九時だな今打ったのは」

 とおかで聞くとおかしいほど大きな塩がれ声で言った。どれほど熟睡していても、時間には鋭敏な船員らしい倉地の様子が何のことはなく葉子を微笑ほほえました。

 倉地が立つと、葉子も床を出た。そしてその辺を片づけたり、煙草たばこを吸ったりしている間に(葉子は船の中で煙草を吸うことを覚えてしまったのだった)倉地は手早く顔を洗って部屋に帰って来た。そして制服に着かえ始めた。葉子はいそいそとそれを手伝った。倉地特有な西洋風に甘ったるいような一種の匂いがその体にも服にもまつわっていた。それが不思議にいつでも葉子の心をときめかした。

「もう飯をっとる暇はない。またしばらくせわしいで木っ葉微塵みじんだ。今夜はおそいかも知れんよ。俺たちには天長節も何もあったもんじゃない」

 そう言われて見ると葉子は今日が天長節なのを思い出した。葉子の心はなおなお寛闊かんかつになった。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。