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或る女(21) (1/8)

 絵島丸はシヤトルに着いてから十二日目にともづなを解いて帰航するはずになっていた。その出発があと三日になった十月十五日に、木村は、船医の興録から、葉子はどうしてもひとまず帰国させる方が安全だという最後の宣告を下されてしまった。木村はその時にはもう大体覚悟を決めていた。帰ろうと思っている葉子の下心をおぼろげながら見て取って、それを翻すことは出来ないと諦めていた。運命に従順な羊のように、しかし執念しゅうねく将来の希望を命にして、現在の不満に服従しようとしていた。

 緯度の高いシヤトルに冬の襲いかかって来る様はすさまじいものだった。海岸線に沿うてはるか遠くまで連続して見渡されるロッキーの山々はもうたっぷりと雪がかかって、穏やかな夕空に現れ慣れた雲の峰も、古綿のように形の崩れた色の寒い霰雲あられぐもに変わって、人をおびやかす白いものが、今にも地を払って降りおろして来るかと思われた。海沿いに生えそろった亜米利加アメリカ松のみどりばかりが毒々しいほど黒ずんで、に立つばかりで、闊葉樹かつようじゅの類は、いつの間にか、葉を払い落とした枝先を針のように鋭く空に向けていた。シヤトルの町並みがあると思われる辺からは――船のつながれているところから市街は見えなかった――急に煤煙ばいえんが立ち増さって、わしく冬支度を整えながら、やがて北半球を包んで攻め寄せて来る真っ白な寒気に対して覚束おぼつかない抵抗を用意するように見えた。ポッケットに両手をさし入れて、頭を縮め気味に、波止場の石畳を歩きまわる人々の姿にも、不安と焦燥とのうかがわれる忙わしい自然の移り変わりの中に、絵島丸は慌ただしい発航の準備をし始めた。絞盤の歯車のきしむ音が船首と船尾とからやかましくえ返って聞こえ始めた。

表記等について

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。