» 公開

或る女(20) (1/6)

 船の着いたその晩、田川夫妻は見舞いの言葉も別れの言葉も残さずに、大勢の出迎え人に囲まれて堂々と威儀を整えて上陸してしまった。その余の人々の中にはわざわざ葉子の部屋を訪れて来たものが数人はあったけれども、葉子はいかにも親しみをこめた別れの言葉を与えはしたが、後まで心に残る人とては一人もいなかった。その晩事務長が来て、狭っこいboudoirのような船室でおそくまでしめじめと打ち語った間に、葉子はふと二度ほど岡のことを思っていた。あんなに自分を慕っていはしたが岡も上陸してしまえば、詮方なくボストンの方に旅立つ用意をするだろう。そしてやがて自分のこともいつとはなしに忘れてしまうだろう。それにしても何という上品な美しい青年だったろう。こんなことをふと思ったのもしかしつかの間で、その追憶は心の戸をたたいたと思うとはかなくもどこかに消えてしまった。今はただ木村という邪魔な考えが、もやもやと胸の中に立ち迷うばかりで、その奥には事務長の打ち勝ちがたい暗い力が、魔王のように小動こゆるぎもせずうずくまっているのみだった。

 荷役の目まぐるしい騒ぎが二日続いた後の絵島丸は、泣きわめく遺族に取り囲まれたうつろな死骸のように、がらんと静まり返って、騒々しい桟橋の雑踏の間にさびしく横たわっている。

 水夫が、輪切りにした椰子やしの実で汚れた甲板を単調にごしごしごしごしとこする音が、時というものをゆるゆるり減らすやすりのように日がな日ねもす聞こえていた。

 葉子は早く早くここを切り上げて日本に帰りたいという子供じみた考えのほかには、おかしいほどそのほかの興味を失ってしまって、他郷の風景に一瞥いちべつを与えることもいとわしく、自分の部屋の中に籠もりきって、ひたすら発船の日を待ちびた。もっとも木村が毎日米国という香を鼻をつくばかり身のまわりに漂わせて、葉子を訪れて来るので、葉子はうっかり寝床を離れることも出来なかった。

 木村は来るたびごとにぜひ米国の医者に健康診断を頼んで、大事なければ思いきって検疫官の検疫を受けて、ともかくも上陸するようにと勧めて見たが、葉子はどこまでもいやを言い通すので、二人の間には時々危険な沈黙が続くことも珍しくなかった。葉子はしかし、いつでも手際よくその場合場合を操って、それから甘い歓語を引き出すだけの機才ウィットを持ち合わしていたので、この一ヵ月ほど見知らぬ人の間に立ち交じって、貧乏の屈辱を存分にめ尽くした木村は、見る見る温柔な葉子の言葉や表情に酔いしれるのだった。カリフォルニヤから来る水々しい葡萄ぶどうやバナナを器用な経木きょうぎ小籃こかごに盛ったり、美しい花束を携えたりして、葉子の朝化粧がしまったかと思うころには木村が欠かさず尋ねて来た。そして毎日くどくどと興録に葉子の容態を聞きただした。興録はいい加減なことを言って一日延ばしに延ばしているのでたまらなくなって木村が事務長に相談すると、事務長は興録よりもさらに要領を得ない受け答えをした、仕方なしに木村は途方に暮れて、また葉子に帰って来て泣きつくように上陸を迫るのであった。その毎日のいきさつを夜になると葉子は事務長と話しあって笑いの種にした。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。