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或る女(2) (1/4)

 葉子は木部が魂を打ちこんだ初恋の的だった。それはちょうど日清戦争が終局を告げて、国民一般は誰彼の差別なく、この戦争に関係のあった事柄や人物やに事実以上の好奇心をそそられていたころであったが、木部は二十五という若いとしで、ある大新聞社の従軍記者になって支那に渡り、月並みな通信文の多い中に、際立って観察の飛び離れた心力のゆらいだ文章を発表して、天才記者という名を博してめでたく凱旋がいせんしたのであった。そのころ女流基督キリスト教徒の先覚者として、基督教婦人同盟の副会長をしていた葉子の母は、木部の属していた新聞社の社長と親しい交際のあった関係から、ある日その社の従軍記者を自宅に招いて慰労の会食を催した。その席で、小柄で白皙はくせきで、詩吟の声の悲壮な、感情の熱烈なこの少壮従軍記者ははじめて葉子を見たのだった。

 葉子はその時十九だったが、すでに幾人もの男に恋をし向けられて、その囲みを手際よく繰りぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクトは十分に持っていた。十五の時に、はかまひもで締める代わりに尾錠びじょうで締める工夫をして、一時女学生界の流行を風靡ふうびしたのも彼女である。そのあかい唇を吸わして首席を占めたんだと、厳格で通っている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮き名を負わせたのも彼女である。上野の音楽学校にはいってヴァイオリンの稽古を始めてから二ヵ月ほどの間にめきめき上達して、教師や生徒の舌を巻かした時、ケーベル博士一人は渋い顔をした。そしてある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と無愛想に言って退けた。それを聞くと「そうでございますか」と無造作に言いながら、ヴァイオリンを窓の外にほうりなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。基督教婦人同盟の事業に奔走し、社会では男勝りのしっかり者という評判を取り、家内では趣味の高いそして意志の弱い良人おっとを全く無視して振る舞ったその母の最も深い隠れた弱点を、拇指ぼしと食指との間にちゃんと押さえて、一歩もひけを取らなかったのも彼女である。葉子の眼にはすべての人が、ことに男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男をかなり近くまで潜り込ませておいて、もう一歩というところで突っ放した。恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、ある機会を絶頂に男性が突然女性を踏みにじるということを直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても、自分との関係の絶頂がどこにあるかを見ぬいていて、そこに来かかると情容赦もなくその男を振り捨ててしまった。そうして捨てられた多くの男は、葉子を恨むよりも自分たちの獣性を恥じるように見えた。そして彼らは等しく葉子を見誤っていたことを悔いるように見えた。なぜというと、彼らは一人として葉子に対して怨恨を抱いたり、憤怒を漏らしたりするものはなかったから。そして少しひがんだ者たちは自分の愚を認めるよりも葉子を年不相当にませた女と見る方が勝手だったから。

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。