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或る女(18) (1/6)

 その夜船はビクトリヤに着いた。倉庫の立ちならんだ長い桟橋に"Car to the Town. Fare 15 ¢" と大きな白い看板に書いてあるのが夜目にもしるく葉子の眼窓から見やられた。米国への上陸が禁ぜられている支那の苦力クリーがここから上陸するのと、相当の荷役とで、船の内外は急に騒々そうぞうしくなった。事務長は忙しいと見えてその夜はついに葉子の部屋に顔を見せなかった。そこいらが騒々しくなればなるほど葉子は例えようのない平和を感じた。生まれて以来、葉子は生に固着した不安からこれほどまで綺麗きれいに遠ざかり得るものとは思いも設けていなかった。しかもそれが空疎な平和ではない。飛び立っておどりたいほどのecstasyを苦もなく押さえ得る強い力の潜んだ平和だった。すべてのことに飽き足った人のように、また二十五年にわたる長い苦しい戦いにはじめて勝ってかぶとを脱いだ人のように、心にも肉にも快い疲労を覚えて、いわばその疲れを夢のように味わいながら、なよなよとソファに身を寄せて灯火を見つめていた。倉地がそこにいないのが浅い心残りだった。けれども何といっても心安かった。ともすれば微笑が唇の上をさざなみのようにひらめき過ぎた。

 けれどもその翌日から一等船客の葉子に対する態度はてのひらを返したように変わってしまった。一夜の間にこれほどの変化をき起こすことの出来る力を、葉子は田川夫人のほかに想像し得なかった。田川夫人が世に時めく良人おっとを持って、人の眼に立つ交際をして、女盛りと言い条、もういくらかくだり坂であるのに引きかえて、どんな人の配偶にして見ても恥ずかしくない才能と容貌とを持った若々しい葉子の便りなげな身の上とが、二人に近づく男たちに同情の軽重を起こさせるのはもちろんだった。しかし道徳はいつでも田川夫人のような立場にある人の利器で、夫人はまたそれを有利に使うことを忘れない種類の人であった。そして船客たちの葉子に対する同情の底に潜む野心――はかない、野心とも言えないほどの野心――もう一つ言い換ゆれば、葉子の記憶に親切な男として、勇悍ゆうかんな男として、美貌な男として残りたいというほどな野心――に絶望の断定を与えることによって、その同情を引っ込めさせることの出来るのも夫人は心得ていた。事務長が自己の勢力範囲から離れてしまったことも不快の一つだった。こんなことから事務長と葉子との関係は巧妙な手段で逸早いちはやく船中に伝えられたに違いない。その結果として葉子はたちまち船中の社交から葬られてしまった。少なくとも田川夫人の前では、船客の大部分は葉子に対して疎々よそよそしい態度をして見せるようになった。中にも一番あわれなのは岡だった。誰が何と告げ囗したのか知らないが、葉子が朝おそく眼を覚まして甲板に出て見ると、いつものように手欄てすりりかかって、もう内海になった波の色を眺めていた彼は、葉子の姿を認めるや否や、ふいとその場を外して、どこかへ影を隠してしまった。それからというもの、岡はまるで幽霊のようだった。船の中にいることだけは確かだが、葉子がどうかしてその姿を見つけたと思うと、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。その癖葉子は思わぬ時に、岡がどこかで自分を見守っているのを確かに感ずることがたびたびだった。葉子はその岡を憐れむことすらもう忘れていた。

 結句船の中の人たちから度外視されるのを気安いこととまでは思わないでも、葉子はかかる結果には一向無頓着だった。もう船は今日シヤトルに着くのだ。田川夫人やそのほかの船客たちのいわゆる「監視」の下に苦々しい思いをするのも今日限りだ。そう葉子は平気で考えていた。

 しかし船がシヤトルに着くということは、葉子にほかの不安を持ち来たさずにはおかなかった。シカゴに行って半年か一年木村と連れ添うほかはあるまいとも思った。しかし木部の時でも二ヵ月とは同棲どうせいしていなかったとも思った。倉地と離れては一日でもいられそうにはなかった。しかしこんなことを考えるには船がシヤトルに着いてからでも三日や四日の余裕はある。倉地はそのことは第一に考えてくれているに違いない。葉子は今の平和を強いてこんな問題でかき乱すことを欲しなかったばかりでなくとても出来なかった。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。