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或る女(17) (1/8)

 事務長のさしがねはうまい坪にはまった。検疫官は絵島丸の検疫事務をすっかり年老としとった次位の医官に任せてしまって、自分は船長室で船長、事務長、葉子を相手に、話に花を咲かせながらトランプをいじり通した。あたり前ならば、何とかかとか必ず苦情の持ち上がるべき英国風の小やかましい検疫もあっさり済んで放蕩者ほうとうものらしい血気盛りな検疫官は、船に来てから二時間そこそこで機嫌よく帰って行くことになった。

 まるともなく進行を止めていた絵島丸は風のまにまに少しずつ方向を変えながら、二人の医官を乗せて行くモーター・ボートが舷側げんそくを離れるのを待っていた。折り目正しい長めな紺の背広を着た検疫官はボートの舵座かじざに立ち上がって、手欄てすりから葉子と一緒に胸から上を乗り出した船長となお戯談じょうだんを取り交わした。船梯子ふなばしごの下まで医官を見送った事務長は、物慣れた様子でポッケットからいくらかを水夫の手につかませておいて、上を向いて合図をすると、船梯子はきりきりと水平にき上げられて行く、それをこともなげに身軽く駆けよって来た。検疫官の眼は事務長への挨拶もそこそこに、思いきり派手な装いを凝らした葉子の方に吸いつけられるらしかった。葉子はその眼を迎えて情をこめた流眄ながしめを送り返した。検疫官がその忙しい間にも何かしきりに物を言おうとした時、けたたましい汽笛が一抹の白煙を青空に揚げて鳴りはためき、船尾からはすさまじい推進機の震動が起こり始めた。この慌ただしい船の別れを惜しむように、検疫官は帽子を取って振り動かしながら、噪音そうおんにもみ消される言葉を続けていたが、もとより葉子にはそれは聞こえなかった。葉子はただにこにこと微笑ほほえみながらうなずいて見せた。そしてただ一時の悪戯心いたずらごころから髪に挿していた小さな造花を投げてやると、それがあわよく検疫官の肩にあたって足もとにすべり落ちた。検疫官が片手に舵綱かじづなを操りながら、有頂天になってそれを拾おうとするのを見ると、船舷ふなばたに立ちならんで物珍しげに陸地を見物していたステヤレージの男女の客は一斉に手をたたいてどよめいた。葉子はあたりを見まわした。西洋の婦人たちは等しく葉子を見やって、その花々しい服装から、軽率かるはずみらしい挙動を苦々しく思うらしい顔つきをしていた。それらの外国人の中には田川夫人も交じっていた。

 検疫官は絵島丸が残して行った白沫の中で、腰をふらつかせながら、笑い興ずる群集にまで幾度も頭を下げた。群集はまた思い出したように漫罵まんばを放って笑いどよめいた。それを聞くと日本語のよくわかる白髪の船長は、いつものように顔を赤くして、気の毒そうに恥ずかしげな眼を葉子に送ったが、葉子がはしたない群集の言葉にも、苦々しげな船客の顔色にも、少しも頓着しない風で、微笑み続けながらモーター・ボートの方を見守っているのを見ると、未通女おぼこらしくさらに真っ赤になってその場を外してしまった。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。