» 公開

或る女(16) (1/4)

 葉子は本当に死の間をさまよい歩いたような不思議な、混乱した感情の狂いに泥酔して、事務長の部屋から足もとも定まらずに自分の船室に戻って来たが、精も根も尽き果ててそのままソファの上にっ倒れた。眼の周りに薄黒いかさの出来たその顔は鈍い鉛色をして、瞳孔どうこうは光に対して調節の力を失っていた。軽く開いたままの唇から漏れる歯並みまでが、光なく、ただ白く見やられて、死を連想させるような醜い美しさが耳の附根つけねまでみなぎっていた。雪解時ゆきげどけの泉のように、あらん限りの感情が目まぐるしく湧き上がっていたその胸には、底の方に暗い悲哀がこちんよどんでいるばかりだった。

 葉子はこんな不思議な心の状態からのがれ出ようと、思い出したように頭を働かして見たが、その努力は心にもなくかすかなはかないものだった。そしてその不思議に混乱した心の状態もいわば堪えきれぬほどの切なさは持っていなかった。葉子はそんなにしてぼんやりと眼を覚ましそうになったり、意識の仮睡に陥ったりした。猛烈な胃痙攣いけいれんを起こした患者が、モルヒネの注射を受けて、間歇的かんけつてきに起こる痛みのために無意識に顔をしかめながら、麻薬の恐ろしい力の下に、ただ昏々こんこんと奇怪な仮睡に陥り込むように、葉子の心は無理無体な努力で時々驚いたように乱れさわぎながら、たちまち物凄ものすごい沈滞のふち深く落ちて行くのだった。葉子の意志はいかに手を延ばしても、もう心の落ち行く深みには届きかねた。頭の中は熱を持って、ただぼーと黄色く煙っていた。その黄色い煙の中を時々紅い火や青い火がちかちかと神経をうずかして駆け通った。息気いきづまるような今朝の光景や、過去のあらゆる回想が、入り乱れて現れて来ても、葉子はそれに対して毛の末ほども心を動かされはしなかった。それは遠い遠い木魂こだまのようにうつろにかすかに響いては消えて行くばかりだった。過去の自分と今の自分とのこれほどな恐ろしいへだたりを、葉子は恐れげもなく、なるがままに任せておいて、重く澱んだ絶望的な悲哀にただわけもなくどこまでも引っ張られて行った。その先には暗い忘却が待ち設けていた。涙で重ったまぶたはだんだん打ち開いたままの瞳をおおって行った。少し開いた唇の間からは、うめくような軽いいびきが漏れ始めた。それを葉子はかすかに意識しながら、ソファの上に俯向うつむきになったまま、いつとはなしに夢もない深い眠りに陥っていた。

 どのくらい眠っていたか分からない。突然葉子は心臓でも破裂しそうな驚きに打たれて、はっと眼を開いて頭をもたげた。ずきずきずきと頭のしんが痛んで、部屋の中は火のように輝いて面も向けられなかった。もう昼ごろだなと気がつくうちにも、雷とも思われる叫喚が船を震わして響き渡っていた。葉子はこの瞬間の不思議に胸をどきつかせながら聞き耳を立てた。船のおののきとも自分のおののきとも知れぬ震動が葉子の五体を木の葉のようにもてあそんだ。しばらくしてその叫喚がややしずまったので、葉子はようやく、横浜を出て以来絶えて用いられなかった汽笛の声であることを悟った。検疫所が近づいたのだなと思って、襟元をかき合わせながら、静かにソファの上に膝を立てて、眼窓から外面とのものぞいて見た。今朝までは雨雲に閉じられていた空も見違えるようにからっと晴れ渡って、紺青こんじょうの色は日の光のために奥深く輝いていた。松が自然に美しく配置されて生え茂った岩がかった岸がすぐ眼の先に見えて、海はいかにも入り江らしく可憐なさざなみをつらね、その上を絵島丸は機関の動悸どうきを打ちながらしずかに走っていた。幾日の荒々しい海路からここに来て見ると、さすがにそこには人間の隠れ場らしい静かさがあった。

 岸の奥まったところに白い壁の小さな家屋が見られた。その傍には英国の国旗が徴風にあおられて青空の中に動いていた。「あれが検疫官のいるところなのだ」そう思った意識の活動が始まるや否や、葉子の頭ははじめて生まれ代わったようにはっきりとなって行った。そして頭がはっきりして来るとともに、今まで切り放されていたすべての過去があるべき姿を取って、明瞭に現在の葉子と結びついた。葉子は過去の回想が今見たばかりの景色からでも来たように驚いて、急いで眼窓から顔を引っ込めて、強敵に襲いかかられた孤軍のように、たじろぎながらまたソファの上に臥倒ねたおれた。頭の中は急にむらがり集まる考えを整理するために激しく働き出した。葉子はひとりでに両手で髪の毛の上から顳顬こめかみのところを押さえた。そして少し上眼うわめをつかって鏡の方を見やりながら、今まで閉止していた乱想の寄せ来るままに機敏にそれを送り迎えようと身構えた。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。