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或る女(15) (1/7)

 葉子はある朝思いがけなく早起きをした。米国に近づくにつれて緯度はだんだん下って行ったので、寒気も薄らいでいたけれども、何といっても秋立った空気は朝ごとに冷え冷えと引きしまっていた。葉子は温室のような船室からこのきりっとした空気に触れようとして甲板に出て見た。右舷うげんまわって左舷に出ると計らずもの前に陸影を見つけ出して、思わず足を止めた。そこには十日ほど念頭から絶え果てていたようなものが海面から浅くもれ上って続いていた。葉子は好奇な眼をかがやかしながら、思わず一旦めた足を動かして手欄てすりに近づいてそれを見渡した。オレゴン松がすくすくと白波の激しくみよせる岸辺まで密生したバンクーバー島の低い山波やまなみがそこにあった。物すごく底光りのする真っ青な遠洋の色は、いつの間にか乱れた波の物狂わしく立ち騒ぐ沿海の青灰色に変わって、その先に見える暗緑の樹林はどんよりとした雨空の下に荒涼として横たわっていた。それはみじめな姿だった。へだたりの遠いせいか船がいくら進んでも景色にはいささかの変化も起こらないで、荒涼たるその景色はいつまでも眼の前に立ち続いていた。古綿に似た薄雲を漏れる朝日の光が力弱くそれを照らすたびごとに、煮えきらない影と光の変化がかすかに山と海とをなでて通るばかりだ。長い長い海洋の生活に慣れた葉子の眼には陸地の印象はむしろ汚いものでも見るように不愉快だった。もう三日ほどすると船はいやでもシヤトルの桟橋につながれるのだ。向こうに見えるあの陸地の続きにシヤトルはある。あの松の林が切り倒されて少しばかりの平地となったところに、ここに一つかしこに一つというように小屋が建ててあるが、その小屋の数が東に行くにつれてだんだん多くなって、しまいには一かたまりの家屋が出来る。それがシヤトルであるに違いない。うらさびしく秋風の吹きわたるその小さな港町の桟橋に、野獣のような諸国の労働者が群がるところに、この小さな絵島丸が疲れきった船体を横たえる時、あの木村が例のめまぐるしい機敏さで、亜米利加アメリカ風になり済ましたらしい物腰で、まわりの景色に釣り合わない景気のいい顔をして、船梯子ふなばしごを上って来る様子までが、葉子には見るように想像された。

「いやだいやだ。どうしても木村と一緒になるのはいやだ。私は東京に帰ってしまおう」

 葉子はだだっ子らしく今さらそんなことを本気に考えて見たりしていた。

 水夫長と一人のボーイとが押し並んで、靴と草履ぞうりとの音をたてながらやって来た。そして葉子のそばまで来ると、葉子が振り返ったので二人ながら慇懃いんぎんに、

「お早うございます」

 と挨拶した。その様子がいかにも親しい目上に対するような態度で、ことに水夫長は、

「御退屈でございましたろう。それでもこれであと三日になりました。今度の航海にはしかしお陰様で大助かりをしまして、昨夕ゆうべから際だってよくなりましてね」

 と付け加えた。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。