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或る女(14) (1/5)

 何といっても船旅は単調だった。たとい日々夜々に一瞬もやむことなく姿を変える海の波と空の雲とはあっても、詩人でもないなべての船客は、それらに対して途方に暮れた倦怠けんたいの視線を投げるばかりだった。地上の生活からすっかり遮断された船の中には、ごく小さなことでも眼新しい事件の起こることのみが待ち設けられていた。そうした生活では葉子が自然に船客の注意の焦点となり、話題の提供者となったのは不思議もない。毎日毎日凍りつくような濃霧の間を、東へ東へと心細く走り続ける小さな汽船の中の社会は、あらわには知れないながら、何かさびしい過去を持つらしい、妖艶ようえんな、若い葉子の一挙一動を、絶えず興味深くじっと見守るように見えた。

 かの奇怪な心の動乱の一夜を過ごすと、その翌日から葉子はまた普段の通りに、いかにも足もとがあやうく見えながら少しも破綻を示さず、ややもすれば他人の勝手になりそうでいて、よそからは決して動かされない女になっていた。はじめて食堂に出た時のつつましやかさに引きかえて、時には快活な少女のように晴れやかな顔つきをして、船客らと言葉を交わしたりした。食堂に現れる時の葉子の服装だけでも、退屈にうんじ果てた人々には、物好きな期待を与えた。ある時は葉子は慎しみ深い深窓の婦人らしく上品に、ある時は素養の深い若いディレッタントのように高尚に、またある時は習俗から解放されたadventuressとも思われる放胆を示した。その極端な変化が一日のうちに起こって来ても、人々はさして怪しく思わなかった。それほど葉子の性格には複雑なものが潜んでいるのを感じさせた。絵島丸が横浜の桟橋につながれている間から、人々の注意の中心となっていた田川夫人を、海気にあって息気いきをふき返した人魚のような葉子のそばにおいて見ると、身分、閲歴、学殖、年齢などといういかめしい資格が、かえって夫人を固い古ぼけた輪郭にはめこんで見せる結果になって、ただ神体のない空虚な宮殿のようなそらいかめしい興なさを感じさせるばかりだった。女の本能の鋭さから田川夫人はすぐそれを感づいたらしかった。夫人の耳もとに響いて来るのは葉子のうわさばかりで、夫人自身の評判は見る見る薄れて行った。ともすると田川博士までが、夫人の存在を忘れたような振る舞いをする、そう夫人を思わせることがあるらしかった。食堂のテーブルを挟んで向かい合う夫妻が他人同士のような顔をして互い互いにぬすみ見をするのを葉子がすばやく見て取ったことなどもあった。と言って今まで自分の子供でもあしらうように振る舞っていた葉子に対して、今さら夫人は改まった態度も取りかねていた。よくも仮面をかぶって人を陥れたという女らしいひねくれた妬みひがみが、明らかに夫人の表情に読まれ出した。しかし実際の処置としては、口惜しくても虫を殺して、自分を葉子まで引き下げるか、葉子を自分まで引き上げるより仕方がなかった。夫人の葉子に対する仕打ちは戸板を返すように違って来た。葉子は知らん顔をして夫人のするがままに任せていた。葉子はもとより夫人の慌てたこの処置が夫人には致命的な不利益であり、自分には都合のいい仕合わせであるのを知っていたからだ。案の定、田川夫人のこの譲歩は、夫人に何らかの同情なり尊敬なりが加えられる結果とならなかったばかりでなく、その勢力はますます下り坂になって、葉子はいつの間にか田川夫人と対等で物を言い合っても少しも不思議とは思わせないほどの高みに自分を持ち上げてしまっていた。落ち目になった夫人は年甲斐としがいもなくしどろもどろになっていた。恐ろしいほどやさしく親切に葉子をあしらうかと思えば、皮肉らしく馬鹿丁寧に物を言いかけたり、あるいは突然路傍の人に対するようなよそよそしさを装って見せたりした。死にかけた蛇ののたうちまわるのを見やる蛇使いのように、葉子は冷ややかにあざ笑いながら、夫人の心の葛藤を見やっていた。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。