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或る女(13) (1/5)

 そこだけは星が光っていないので、雲のあるところがようやく知れるくらい思いきって暗い夜だった。おっかぶさって来るかと見上ぐれば、のまわるほど遠のいて見え、遠いと思って見れば、今にも頭を包みそうに近くせまってる鋼色はがねいろの沈黙した大空が、際限もない羽を垂れたように、同じ暗色の海原に続くところから波が湧いて、闇の中をのたうちまろびながら、見渡す限りわめき騒いでいる。耳を澄まして聞いていると、水と水とが激しくぶつかり合う底の方に、

「おーい、おい、おい、おーい」

 と言うかと思われる声ともつかない一種の奇怪な響きが、ふなべりをめぐって叫ばれていた。葉子は前後左右に大きく傾く甲板かんぱんの上を、傾くままに身を斜めにして辛く重心を取りながら、よろけよろけブリッジに近いハッチの物陰までたどりついて、ショールで深々とくびから下を巻いて、白ペンキで塗った板囲いに身を寄せかけて立った。たたずんだところは風下にるが、頭の上では、ほばしらから垂れ下った索綱の類が風にしなってうなりを立て、アリュウシャン群島近い高緯度の空気は、九月の末とは思われぬほど寒く霜を含んでいた。気負いに気負った葉子の肉体はしかしさして寒いとは思わなかった。寒いとしてもむしろ快い寒さだった。もうどんどんと冷えて行く衣物きもの裏に、心臓のはげしい鼓動につれて、乳房が冷たく触れたり離れたりするのが、なやましい気分を誘い出したりした。それに佇んでいるのに脚が爪先からだんだんに冷えて行って、やがて膝から下は知覚を失い始めたので、気分は妙に上ずって来て、葉子の幼い時からの癖である夢ともうつつとも知れない音楽的な錯覚に陥って行った。五体も心も不思議な熱を覚えながら、一種のリズムの中に揺り動かされるようになって行った。何を見るともなく凝然と見定めた眼の前に、無数の星が船の動揺につれて光のまたたきをしながら、ゆるいテンポを調ととのえてゆらりゆらりと静かにおどると、帆綱のうなりが張りきったバスの声となり、その間を「おーい、おい、おい、おーい...」と心の声とも波の☆うめき☆とも分からぬトレモロが流れ、盛り上がり、くずれこむ波また波がテノルの役目を勤めた。声が形となり、形が声となり、それから一緒にもつれ合う姿を葉子は眼で聞いたり耳で見たりしていた。何のために夜寒を甲板に出て来たか葉子は忘れていた。夢遊病者のように葉子は驀地まっしぐらにこの不思議な世界に落ちこんで行った。それでいて、葉子の心の一部分はいたましいほどめきっていた。葉子はつばめのようにその音楽的な夢幻界をけ上りくぐりぬけてさまざまなことを考えていた。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。