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或る女(12) (1/7)

 その日の夕方、葉子は船に来てからはじめて食堂に出た。着物は思いきって地味なくすんだのを選んだけれども、顔だけは存分に若くつくっていた。二十を越すや越さずに見える、眼の大きな、沈んだ表情の彼女の襟の藍鼠あいねずみは、何んとなく見る人の心を痛くさせた。細長い食卓の一端に、カップ・ボードを後ろにして座を占めた事務長の右手には田川夫人がいて、その向かいが田川博士、葉子の席は博士のすぐ隣に取ってあった。そのほかの船客も大概はすでに卓に向かっていた。葉子の足音が聞こえると、逸早いちはやく眼くばせをし合ったのはボーイ仲間で、その次にひどく落ちつかぬ様子をし出したのは事務長と向かい合って食卓の他の一端にいたひげの白い亜米利加アメリカ人の船長であった。慌てて席を立って、右手にナプキンを下げながら、自分の前を葉子に通らせて、顔を真っ赤にして座に返った。葉子はしとやかに人々の物数奇ものずきらしい視線を受け流しながら、ぐるっと食卓をまわって自分の席まで行くと、田川博士はぬすむように夫人の顔をちょっとうかがっておいて、ふとった体をよけるようにして葉子を自分の隣にすわらせた。

 坐り住まいをただしている間、たくさんの注視の中にも、葉子は田川夫人の冷たいひとみの光を浴びているのを心地悪いほどに感じた。やがてきちんつつましく正面を向いて腰かけて、ナプキンを取り上げながら、まず第一に田川夫人の方に眼をやってそっと挨拶すると、今までの角々しい眼にもさすがに申しわけほどの笑みを見せて、夫人が何か言おうとした瞬間、その時までぎごちなく話を途切らしていた田川博士も事務長の方を向いて何か言おうとしたところであったので、両方の言葉が気まずくぶつかりあって、夫婦は思わず同時に顔を見合わせた。一座の人々も、日本人といわず外国人といわず、葉子に集めていた眸を田川夫妻の方に向けた。「失礼」と言ってひかえた博士に夫人はちょっと頭を下げておいて、皆に聞こえるほどはっきり澄んだ声で、

「とんと食堂においでがなかったので、お案じ申しましたの、船にはお困りですか」

 と言った。さすがに世慣れて才走ったその言葉は、人の上に立ちつけた重みを見せた。葉子はにこやかに黙ってうなずきながら、位を一段落して会釈するのをそう不快には思わぬくらいだった。二人の間の挨拶はそれなりで途切れてしまったので、田川博士はおもむろに事務長に向かってし続けていた話の糸目をつなごうとした。

「それから...その...」

 しかし話の糸口は思うように出て来なかった。こともなげに落ちついた様子に見える博士の心の中に、軽い混乱が起こっているのを、葉子はすぐ見て取った。思い通りに一座の気分を動揺させることが出来るという自信が裏書きされたように葉子は思ってそっと満足を感じていた。そしてボーイ長の指図でボーイらが手器用に運んで来たポタージュをすすりながら、田川博士の方の話に耳を立てた。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。