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或る女(11) (1/6)

 絵島丸が横浜を抜錨ばっぴょうしてからもう三日たった。東京湾を出抜けると、黒潮に乗って、金華山沖あたりからは航路を東北に向けて、まっしぐらに緯度を上って行くので、気温は二日目あたりから目立って涼しくなって行った。陸の影はいつの間にか船のどのふなべりからも眺めることはできなくなっていた。背羽根の灰色な腹の白い海鳥が、時々思い出したようにさびしい声できながら、船の周囲を群れ飛ぶほかには、生き物の影とては見ることも出来ないようになっていた。重い冷たい潮霧ガスが野火の煙のように濛々もうもうと南に走って、それが秋らしい狭霧さぎりとなって、船体を包むかと思うと、たちまちからっと晴れた青空を船に残して消えて行ったりした。格別の風もないのに海面は色濃く波打ち騒いだ。三日目からは船の中に盛んにスティームが通り始めた。

 葉子はこの三日というもの、一度も食堂に出ずに船室にばかり閉じ籠もっていた。船に酔ったからではない。はじめて遠い航海を試みる葉子にしては、それが不思議なくらいたやすい旅だった。普段以上に食欲さえ増していた。神経に強い刺激が与えられて、とかく鬱結うっけつしやすかった血液も濃く重たいなりにも滑らかに血管の中を循環し、海から来る一種の力が体の隅々まで行きわたって、うずうずするほどな活力を感じさせた。漏らしどころのないその活気が運動もせずにいる葉子の体から心に伝わって、一種の憂鬱に変わるようにさえ思えた。

 葉子はそれでも船室を出ようとはしなかった。生まれてからはじめて孤独に身を置いたような彼女は、子供のようにそれが楽しみたかったし、また船中で顔見知りの誰彼が出来る前に、これまでのこと、これからのことを心にしめて考えても見たいとも思った。しかし葉子が三日の間船室に引き籠もり続けた心持ちには、もう少し違ったものもあった。葉子は自分が船客たちから激しい好奇ので見られようとしているのを知っていた。立役は幕明きから舞台に出ているものではない。観客が待ちに待って、待ちくたぶれそうになった時分に、しずしずと乗り出して、舞台の空気を思うさま動かさねばならぬのだ。葉子の胸の中にはこんな狡獪ずるがしこいいたずらな心も潜んでいたのだ。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。