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或る女(10) (1/5)

 はじめての旅客も物慣れた旅客も、抜錨ばつびょうしたばかりの船の甲板に立っては、落ちついた心でいることが出来ないようだった。跡始末のために忙しく右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの興奮にじっとしてはいられないような顔つきをして、乗客は一人残らず甲板に集まって、今まで自分たちがそば近く見ていた桟橋の方にを向けていた。葉子もその様子だけでいうと、他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように手欄てすりりかかって、静かな春雨のように降っている雨のしずくに顔をなぶらせながら、波止場の方を眺めていたが、けれどもそのひとみには何にも映ってはいなかった。その代わり眼と脳との間とおぼしいあたりを、親しい人や疎い人が、何かわけもなくせわしそうに現れ出て、めいめい一番深い印象を与えるような動作をしては消えて行った。葉子の知覚は半分眠ったようにぼんやりして注意するともなくその姿に注意をしていた。そしてこの半睡の状態が破れでもしたら大変なことになると、心のどこかの隅では考えていた。その癖、それを物々しく恐れるでもなかった。身体までが感覚的にしびれるような物うさを覚えた。

 若者が現れた。(どうしてあの男はそれほどの因縁もないのに執念しゅうねく付きまつわるのだろうと葉子は他人事ひとごとのように思った)その乱れた美しい髪の毛が、夕日とかがやくまぶしい光の中で、ブロンドのようにきらめいた。みしめたその左の腕から血がぽたぽたと滴っていた。その滴りが腕から離れて宙に飛ぶごとに、虹色にきらきらとともえを描いて飛び跳った。

「......私を見捨てるん......」

 葉子はその声をまざまざと聞いたと思った時、眼が覚めたようにふっとあらためて港を見渡した。そして、何の感じも起こさないうちに、熟睡からちょっと驚かされた赤が、また他愛なく眠りに落ちて行くように、再び夢ともうつつともない心に返って行った。港の景色はいつの間にか消えてしまって、自分で自分の腕にしがみついた若者の姿が、まざまざと現れ出た。葉子はそれを見ながらどうしてこんな変な心持ちになるのだろう。血のせいとでも言うのだろうか。ことによるとヒステリーにかかっているのではないかしらんなどとのんきに自分の身の上を考えていた。いわば悠々閑々と澄み渡った水の隣に、薄紙一重のさかいも置かず、たぎり返って渦巻き流れる水がある。葉子の心はその静かな方の水に浮かびながら、滝川の中にもまれもまれて落ちて行く自分というものを他人事のように眺めやっているようなものだった。葉子は自分の冷淡さにあきれながら、それでもやっぱり驚きもせず、手欄によりかかってじっと立っていた。

「田川法学博士」

 葉子はまたふと悪戯者いたずらものらしくこんなことを思っていた。が、田川夫妻が自分と反対の舷のとう椅子に腰かけて、世辞世辞しく近寄って来る同船者と何か戯談口じょうだんぐちでもきいているとひとりで決めると、安心でもしたように幻想はまたかの若者にかえって行った。葉子はふと右の肩に暖かみを覚えるように思った。そこには若者の熱い涙がみ込んでいるのだ。葉子は夢遊病者のような眼つきをして、やや頭を後ろに引きながら肩のところを見ようとすると、その瞬間、若者を船から桟橋に連れ出した船員のことがはっと思い出されて、今までめしいていたような眼に、まざまざとその大きな黒い顔が映った。葉子はなお夢みるような眼を見開いたまま、船員の濃い眉から黒い口髭くちひげのあたりを見守っていた。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。