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或る女(1) (1/3)

 新橋を渡る時、発車を知らせる二番目のベルが、霧とまではいえない九月の朝の、煙った空気に包まれて聞こえて来た。葉子は平気でそれを聞いたが、車夫は宙を飛んだ。そして車が、鶴屋という町の角の宿屋を曲がって、いつでも人馬の群がるあの共同井戸のあたりを駆けぬける時、停車場の入口の大戸を閉めようとする駅夫と争いながら、八分がた閉まりかかった戸のところに突っ立ってこっちを見戍みまもっている青年の姿を見た。

「まあおそくなって済みませんでしたこと...まだ間に合いますかしら」

 と葉子が言いながら階段を昇ると、青年は粗末な麦わら帽子をちょっと脱いで、黙ったまま青い切符を渡した。

「おやなぜ一等になさらなかったの。そうしないといけないわけがあるから代えて下さいましな」

 と言おうとしたけれども、火がつくばかりに駅夫がせき立てるので、葉子は黙ったまま青年とならんで小刻みな足どりで、たった一つだけいている改札口へと急いだ。改札はこの二人の乗客を苦々しげに見やりながら、左手を延ばして待っていた。二人がてんでんに切符を出そうとする時、

「若奥様、これをお忘れになりました」

と言いながら、羽被はっぴの紺のにおいの高くするさっきの車夫が、薄い大柄なセルの膝掛けを肩にかけたまま慌てたように追い駆けて来て、オリーヴ色の絹ハンケチに包んだ小さな物を渡そうとした。

「早く早く、早くしないと出っちまいますよ」改札がたまらなくなって癇癪声かんしゃくごえをふり立てた。

 青年の前で「若奥様」と呼ばれたのと、改札ががみがみ怒鳴り立てたので、針のように鋭い神経はすぐ彼女をあまのじゃくにした。葉子は今まで急ぎ気味であった歩みをぴったり止めてしまって、落ちついた顔で、車夫の方に向きなおった。

「そう御苦労よ。家に帰ったらね、今日は帰りが遅くなるかも知れませんから、お嬢さんたちだけで校友会にいらっしゃいってそう言っておくれ。それから横浜の近江屋おうみや――西洋小間物屋の近江屋が来たら、今日こっちから出かけたからって言うようにってね」

 車夫はきょときょとと改札と葉子とをかたみがわりに見やりながら、自分が汽車にでも乗りおくれるように慌てていた。改札の顔はだんだん険しくなって、あわや通路を閉めてしまおうとした時、葉子はするするとその方に近よって、

「どうも済みませんでしたこと」

 といって切符をさし出しながら、改札の眼の先で花が咲いたように微笑ほほえんで見せた。改札は馬鹿になったような顔つきをしながら、それでもおめおめと切符にあなを入れた。

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或る女

「武蔵野」で有名な自然主義作家、国木田独歩の最初の妻である佐々城信子をモデルとしたフィクションです。アメリカにいる再婚相手に会うため、太平洋航路の客船に乗った早月葉子。船上で知り合った客船事務長の倉地三吉と恋に落ち、再婚は取り止めて日本に帰国してしまいます。そして……。封建制度に反発し自我を押し通して生きようとした女性の波瀾万丈な物語です。1911年から1913年まで「白樺」に連載された「或る女のグリンプス」を元に、後半部分を書下ろして1919年、叢文閣から「有島武郎著作集」の前後編として刊行されました。ITmedia 名作文庫では、叢文閣版を底本とした各社文庫を参照するとともに、2010年度常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。巻末付録に正宗白鳥による批評を収録しています。